岩国の歴史

万葉集に歌われる岩国

 古代氏族を統一して出現した大和朝廷は、早くから山陽道を開き、岩国にもその駅家が置かれていた。また 海路も瀬戸内海の浦づたいに開けており、岩国の地は国司などの役人や大陸へ使する外交官の往来で賑わっていたと推定される。その中には歌人もいたと思われ、「万葉集」巻四には、この地を詠んだ次のような歌が記されている。

 周防なる いわくに山をこえむ日は、
                          たむけよくせよ あらきその道

中世の岩国

 岩国地方なは、どのような支配者がいたかというと、平安末期に、岩国氏という一族がいて相当な勢力をもっていたようであるが、1185年(寿永4年)壇ノ浦の合戦で、岩国二郎兼秀、三郎兼末の兄弟が生け捕りにされたことが、「吾妻鏡」に出ているが、源氏の末えいであったため、滅亡は免れたものの、その地位は失われたようである。これに代わって勢力を振るったのが、清縄氏の一族であるが、のち、弘中と改めている。しかし、厳島の戦いで、陶晴賢と共に毛利元就に負れ一族は滅亡した。

吉川広家肖像画(吉川史料館所蔵:岩国市)

吉川氏の岩国支配

 吉川氏の先祖は藤原氏といわれる。かって駿河(静岡県)入江庄吉河に住み、その地名をもって「吉川」を称した吉川氏は、その後、安芸(広島県)大朝庄に本拠を移し勢力を広げてゆく。吉川の名を天下に広めたのは吉川元春である。すなわちこの元春こそ、三矢の訓で名高い毛利元就の次男で,吉川元春は養子縁組によったもの。
 元春、元長の跡を継いだ広家は、1591年(天正19年)、豊臣秀吉から出雲国富田12万石の領主となるよう命じられた。やがて1600年(慶長5年)の関が原の戦いには西軍として参加した毛利氏が敗北したため、周防3万石(のち6万石)に移封される。
 岩国に着いた広家は由宇に上陸して、1602年(慶長7年)、岩国を本拠と定めた。以降、吉川家は、明治維新に至る260年間、この地で文化の香りの高い政治を行った。

岩国文化の開祖は三代広嘉

 岩国藩祖の吉川広家から数えて3代目が広家の孫・広嘉である。広嘉は、元来病弱で、京都での病気療養中、京文化になじみ、また、学ぶところともなったようである。読書に親しみ、武芸を好み、学問心と技術ごごろを重んじる政策は、岩国の文化の開祖と仰がれている。また 「流れない橋・錦帯橋を創建した偉業は、今日知らないものはいない。

明治以降の岩国

 岩国は1889年(明治22年)町制を、1940年(昭和15年)市制を施行した。昭和になって近代工場が相次いで進出し、第2次世界大戦により壊滅的な打撃を受けたが、その後も大規模な工場地帯が次々に形成され、工場都市として飛躍を続けている。

岩国市の最近の概要

  岩国の産業は、良質で豊富な水量を誇る錦川 、河口一帯の干拓地などの恵まれた工業立地条件を背景として 、近代産業のあけぼのとともに工業都市として歩み始めました。

大正14年に東洋一の規模を誇る帝国人造絹糸(現 帝人) が建設されたのを皮切りに、昭和に入ってから山陽パルプ(現 日本製紙) 、東洋紡績、帝人製機など近代工業が進出した。また、第2次大戦中には、陸軍燃料廠、興亜石油が加わり、戦後の軍用地跡には三井石油化学工業 (現 三井化学)のコンビナート工場が建設されました。

 2006年(平成18年)3月20日より、美川町、美和町、本郷村、錦町、由宇町、玖珂町、周東町の八市町村が合併し、新たに総人口が約15万人の新岩国市となりました。

三代藩主吉川広嘉公像

錦帯橋図 伝・渡辺永喜筆

藩政庁を描いた「元朝登城の図」

トップページ ガイド申し込み 錦帯橋周辺案内 城下町案内 文学碑案内 モデルコース