城下町の散策

 岩国城側の横山地区から錦帯橋を渡り、岩国側に城下町があります。城下町は1600年頃(慶長年間)の町割りによって造られた町並みです。岩国城に向かう縦方向の道幅約4.5mと広く、横方向の道幅は2.7mと狭くし、ほぼ統一された基盤の目のようになっています。江戸時代には、商人や武士などが沢山住んでおりました。
町名も城下町らしいものが沢山残っており、また 伝統的建造物も各所にありますので散策して下さい。
@ 大明小路 この大名小路は、岩国城下の大手通りであり、昔は武家屋敷ばかりの侍町でした。
A 玖 珂 町 お城普請の時から(1603年頃)玖珂千束から商人を呼んで商売をさせた通りです。
B 柳 井 町 柳井から商人を呼んで商売をさせたので柳井町となりました。
C 材 木 町 錦川寄りに位置し、大工、木挽、檜皮などの職人など、材木に関係する人が多く住んでいた
D 魚 町 裏町で、魚類の商いをする人が多く住んでいた
E 扇 町  扇形をしていた地域で、旧武家地を中心の住まいがありました
F 鍛冶屋町 当初は米を取り扱う人が多く、米屋町と呼ばれていたが、のちに鍛冶屋が集結したので、鍛冶屋町と呼ばれた。現在も1軒あります。
G 登 富 町 豆腐や食料品の商いが集結していた地域で、豆腐町の町名の変更願いをしたが、許されず登富町と書くようになりました。
H 塩 町 もと塩座があったことから名が付けられたという。
I 鉄砲小路 この付近に鉄砲組が住んでいました。

J 長久寺小路 お寺の多い道筋です。長久寺もあります。

町名のいわれ

錦帯橋

我龍橋

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河原駐車場

バス停

椎尾神社

●郵便局

●教育資料館

●観光協会

●国安邸

●義済

城下町案内図

錦 川


 国安家住宅 
  (登録有形文化財)

  
國安家住宅は、江戸時代より髪付油(『松が香』)を製造販売していた松金屋又三郎によって建てられた。嘉永三年(1850)の墨書銘からこの頃の建築と伝えられているが、それ以前に遡る可能性もある。建築後、幾度か改造されているが、全体的には旧状をよく保持している太い梁を縦横に架け渡した豪壮な構成は岩国城下を代表した町家建築の面影をよくとどめている。

 
 岩国学校教育資料館


岩国学校は、明治三年(1870)岩国藩主吉川経幹が藩の青少年を教育するため学制の大改革を行い、旧兵学校と文学校を公中学・公小学に組織を改めて現在地近くに新築したもので、翌四年二月に開校した。最初の校舎は上層を教員詰所、下層を教室にした二階建てであったが、学制発布の明治五年に三階を増築した。
当初の大部分はほぼ和風様式であるが、増築した三階は屋根鋼板ぶき、アーチ窓、ヨロイ戸付、しっくい大壁造りの洋風である。この和洋を合わせ取り入れた手法は、明治初年の教育制度の激しい移り変わりと文明開化の気運を象徴するもので、全国に現存する明治初年の学校建築の中でも、様式の特異性において他に例をみない。
この学校は、近代日本の礎となった人物を多く輩出している。日本の電気の父藤岡市助、帝國図書館初代館長の田中稲城、鉄道の権威大屋権平、造幣局の山縣修。文豪国木田独歩宇野千代らも学んだ。昭和47年に解体修理されている。

  
 
 
椎尾八幡宮


 この八幡宮は1626年(寛永3年)に、岩国二代藩主吉川広正が、吉川家歴代の守護神である駿河八幡宮の神霊を現地に奉還すると同時に、山の東北部(現在の和木町関ヶ浜)椎尾地区にあった猿田彦神の祠を合祀し、新たに社殿を建立し「椎尾八幡宮」としたもので、吉川歴代藩主に崇敬されてきた。

@ 大明小路長屋門 @ 大明小路長屋門
@大明小路 半月庵 @ 大明小路深川
C 材木町の商家 C 材木町の商家
E 扇町 瑞相寺 G 登富町通り
H 塩町の古い屋敷 J 長久寺小路(長久寺)

  

錦見の町屋の中心は本町とよばれ、本町は玖珂町、柳井町、米屋町(鍛冶屋町)、塩町からなり、その裏に材木町、魚町、登富町をおいて、あわせて「岩国七町」とよんでいる。

玖珂町、柳井町は別だが、他の町名は米、塩、魚、豆腐など食物名を付けており、当時の城下の人々の生活の匂いを感じることができる。これら歴史町名は、当時のままの姿で残るベンガラ格子の民家や白壁の商家とともに、往時の城下町の息吹を伝えている。

城下町のみどころ

写真で訪ねる城下町の散策

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