1 初代藩主 吉川広家
(ひろいえ)  全光院(1561−1561)

1561年(永禄4年)、吉川元春の熊谷信直の娘蕗女の三男として、広島県
       安芸国大朝に生まれた。初陣は10才で、尼崎攻略戦に参加した。
1592年朝鮮の役では、碧蹄館(へきていかん)において、明軍を撃破するなど
     の偉勲をたてた。

1600年、関が原の戦いで、毛利輝元は、西軍の総大将となっていたにもかか
     わらず、徳川家康の実力を見越した広家が、事前に通じていたので、
     宗家毛利氏は滅封ですみ、それに伴い吉川氏も滅ぜられて、出雲国
     富田月山城(とだがっさんじょう)・島根県能義郡広瀬町)12万石から、
     岩国3万石(のち6万石)を領することになった。
1600年岩国へ移封され玖珂郡由宇の仮館に入った。以後広家は内政に専念
     して岩国藩の基礎を築いた。これが岩国藩の起源で、駿河吉川から
     17代目、岩国では初代藩主である。
1608年城山に岩国城を完成させたが、1615年徳川幕府の一国一城の命に
     より取り壊した。
1625年、通津の隠居館にて死没 65才 
 
法名 全光院殿前拾随補 四品中岩如兼大居士

 
 2 2代藩主 吉川広正(ひろまさ)    (浄性院 1601−1666)

1601年(慶長6年)、初代藩主広家と若林藤兵衛女の子として、由宇の館で
     生まれた。
1615年(元和元年)、京都二条城に、徳川家康・秀忠に拝謁して家督の礼を
     行ったが、年少のため、しばらく広家が藩政を行った。
1616年(元和2年)、萩浜手(萩市)の新邸に、毛利輝元の長女たけ(高玄院)を
      迎えて、婚礼の式をあげた。
1640年(寛永17年)、初めて紙に関する仕法を定め、その製造を保護すると
     共に、専売制度を設け、藩の経済・財政の有力な柱とした。また 
     デルタ地帯の、干拓による、新田の開発等、藩の経済的基礎を作り、
     土民の生活を安定させるために力を尽くした。
1666年(寛文6年) 中津(岩国市中津町)の隠居館において没した。65才

 法名 浄性院殿前倉部鉄堂宗閑大居士
 (お塔の文字は、独立禅師の筆跡と伝えられたいる)

  
 3 3代藩主 吉川広嘉 (ひろよし)  玄真院(1621−1679)

1621年(元和7年) 萩の浜邸で2代藩主広正と毛利輝元の長女たけの長男
      として生まれた。
1664年(寛文6年) 持病治療にため長崎から明の亡命僧、独立禅師を招いた
     が、この独立禅師の招請によって、岩国の文化、産業、政治に与えた
     功績は偉大なものがあった。 
1673年(延宝元年) 錦帯橋を創建した。
1667年(寛文7年) 江戸藩邸を新設
1676年(延宝4年)大坂中ノ島に蔵屋敷を設置、翌年に藩札を発行した。
1679年(延宝7年)おこり(マラリアのような一種の熱病)を病み、萩邸において
      没した。お塔の文字は、山口瑠璃光寺住職、竹渓禅師の筆跡である。
 法名:玄真院殿前城門朗快巖如心大居士

     
  
 4 4代藩主 吉川広紀(ひろのり)  普恩院(1658−1696)

1658年(万治元年) 3代藩主広嘉と母 鷲尾隆量の娘(天長院)の長男
               として、岩国横山で生まれたが、病弱であった。
  後々までも尾を引いた家格の問題は、この治世からである。
  広紀は、資性活発で、好奇心が強く敬神の念も厚く、武芸を奨励し、よく文
  学の講義を聞き、領内各地に社寺を再興するなど、前代に引き続き岩国
  藩最良の時代を現出することになった。
1696年(元禄9年) 萩邸において急死した。39才
 法名:普恩院殿前少府郷徳峯祖天大居士

  
 5 5代藩主 吉川広逵(ひろみち) 涼雲院(1695−1715)

1695年(元禄8年) 4代藩主広紀と母 旗本石川八郎左衛門義当(よしまさ)
      二女(喜井)の3男として、岩国横山で生まれた。
1696年(元禄9年)広紀急死したため、2才で藩主となる。生母蓮徳院が後見
      人として、政務をつかさどった。
1708年(宝永5年)実母の高瀬(幕府大奥の老女)をたよって幕閣へ働きか
      けついに秋元但馬守を動かすことに成功したが、結局不成功に終
      わった。
1715年(正徳5年) 江戸の邸で没した。21才
 法名:涼雲院殿玉顔元鮮大居士


    6代藩主 吉川経永(つねなが) 偏照院(1714−1764)

1714年(正徳4年)5代藩主広逵と栗原宗順忠良の娘多喜(たき)の子 
      として、横山で生まれた。
1715年(正徳5年)広逵が急死したため、2才で藩主となり、生母正理院が
      後見人となり、藩政の掌理に当たったが、1716年の百姓一揆

      1738年に疑獄事件が起き、経永治世の始めは、岩国藩政の暗黒
      時代であった。
1764年(明和元年)病で死没した。51才。遺言で横山実相院に葬られた。
      しかし、水害により流出し、吉川新墓所に移された。
 法名:偏照院殿直誉蓮光華岩大禅定門

 
  7 7代藩主 吉川経倫
(つねもと) 大乗院(1746−1803)

1746年(延亨3年)徳山藩5代8代藩主毛利広豊(3万石〜5万4百余石)
       の9男として、江戸で生まれた。
1758年(宝暦9年)6代藩主経永の子はいずれも早世したので世嗣ぎと
       して岩国に迎えられた。
1762年(宝暦13年)幕府の許可を得て、経永と養子縁組をした。
   経倫の時代は、藩の財政が最も厳しい時代であった。前代の負債が整理
   の目途さえ立たないところへ、幕府の課役や水害、火災などが相次いだた 
   め、財政が破綻し、その収拾はいよいよ困難となった。
1792年(寛政4年)長男経忠に職を譲り、翌年新築の隠居館の昌明館に移る。
1803年(享和3年) 岩国で没した。 58才
 法名:大乗院殿前城門朗即心円通大居士

 
  
 8 8代藩主 吉川経忠
(つねただ) 紹徳院(1766−1803)

1766年(明和3年)7代藩主経倫と母は京都 高木采女(うねめ)の長男
         として、横山で生まれた。
 経忠は、文武教育を奨励し、敬神崇祖の範を示すことによって、土風の
 刷新を図ろうとしたが、その効果を期待することが出来なかった。
1803年(享和3年)麻疹を患い、余病を起こして岩国で死没した。38才
 法名:紹徳院殿孝運祖沢大居士

  
 9 9代藩主 吉川経賢(つねかた) 文恭院(1791−1806)

1791年(寛政3年)8代藩主経忠と今田五郎左衛門純式の娘寿賀の長男と 
         して、横山仙鳥館で生まれた。
1803年(享和3年) 9代藩主となり、仙鳥館より本館に移居した。
1806年(文化3年) 脚気を患い、岩国において没した。16才 
   死に臨み、世継がいなかったため、喪を秘して弟経礼(つねひろ)を養子
   とし、翌年(1807年)に喪を発表した。
 法名:文恭院殿徳嵒(巖)道馨大居士

 
 10 10代藩主 吉川経礼
(つねひろ)  謙光院(1793−1836)

1793年(寛政5年)8代藩主経忠と今田五郎左衛門純式の娘寿賀の2男と 
        して、横山に生まれた。
1810年(文化7年)元服し、同年豊後国日出(ひじ)藩主木下俊懋(としまさ)
     2万5千石、大分県速見郡日出町)の娘隆(たか)と婚礼の式をあげた。
     しかし、同夫人は1813年(文化10年)に死去した。
1815年(文化12年)継室 徳山藩主 毛利左兵衛佐就友の娘豊と結婚した。
     この時代、藩政の暗黒時代がようやく終わりをつげ、多年の悪政を
     改革し、財政の整理を軌道に乗せ、窮乏の極にあった藩の財政も、
     この頃から次第に持ち直すことが出来た。
1836年(天保7年) 岩国において没した。 44才
 法名:謙光院殿慈雲藤蔭大居士


 11 11代藩主 吉川経章(つねあきら) 亮功院(1794−1843)

1794年(寛政6年)8代藩主経忠と今田五郎左衛門純式の娘寿賀の3男と 
         して、横山に生まれた。
1837年(天保8年)兄の経礼が死没したので、跡を継ぎ11代藩主となる。
  この時代は、おおむね前代の施政方針を継ぎ、」政策の上ではこれといっ
  たものは見出せないが、」長い間財政の困苦が続いたためか、士卒の
  間で文武の精励よりも、利殖のことに傾く風が生じたことは、見のがす
  ことが出来ない傾向であった。
1843年(天保14年)中風を患い、岩国において急死した。50才
 法名:亮功院殿英山道雄大居士
 
 
 12 12代藩主 吉川経幹(つねまさ) 有格院(1829−1867)

1829年(文政12年)11代藩主経章と長井元簡の娘梅の長男として 
        横山に生まれた。
1844年(弘化元年)16才で藩主となる。幕末の激動期、内外共に多事多難
   の中を毛利宗家と幕府の間に立って、調停に力を尽くし、宗家の危機
   を救ったことは初代藩主広家と共に余りにも有名である。
1856年(安政3年)毛利藩主毛利敬親(たかちね)の招きにより、萩城内の
   花の江亭で和解のための茶会が開かれ、歓待を受けた。
   これによって、家格昇格問題などで、150年に及び疎遠となっていた
   宗家との関係が改善され、明治維新を迎えた。
1867年(慶応3年)病のため、死没した。39才
 法名:有格院殿春山玄静大居士

   
  慈光院  吉川元春正室(初代藩主広家の生母) (     -1606)

 安芸国高松城主 熊谷信直の娘で、
1547年(天文16年)に元春と婚礼の式をあげ、新庄局と呼ばれた。
    4男2女を生み、家庭はいたって円満で賢女の誉れ高く、子供達の
    教育に全力を尽くした。「元就の孫、元春の子」として立派に生きて
    ゆくことを子供に叩きこんだ。3男広家は、父元春が病没し、翌年
    長男元長も病死したので、吉川家を相続した。
1600年(慶長5年)出雲国富田城から、松尾峠を越え由宇に到着した。
1601年横山の上の土居に移った。
1606年(慶長11年)12月11日 死没 岩国万徳院に葬られた。
 法名:慈光院殿窓玉芳珪大姉
 
 
 A  高玄院  (こうげんいん) 2代藩主広正の室 (1600〜1644)

1600年(慶長5年)毛利輝元の長女(竹姫)として生まれた。
1616年(元和2年)婚礼の式をあげたが一度も岩国を訪れることはなかった。
1644年(正保元年)9月10日 萩邸で死没 45才
   高玄院の墓地は、実相院山にあったが、1667年(寛文7年)広正の
   墓と共に、この墓所に配置された。また 初めて寺谷お塔が出来たの
   で、参道や灯篭もここを中心に配置された。広正と高玄院のお塔の
   文字は、独立禅師の筆跡である。
 法名:高玄院殿超誉珠映大姉


 B  天長院(てんちょういん)  3代藩主広嘉の室(1635〜1697)

1635年(寛永12年)鷲尾大納言隆量の娘として京都に生まれた。
1657年(明暦3年)上の土居(かみのどい)のおいて婚礼の式をあげた。
    病弱の夫君を助け、内助の功があり、また 華道の嗜みもあり、側近
    から次々と華道の普及が行われた。清泰院(せいたいいん・日蓮宗)
    の開基となったのもこの方である。
1697年(元禄10年)4月12日 上の土居で没した。 63才
 法名:天長院法要日府大比丘尼


  C 蓮徳院(れんとくいん)  4代藩主広紀の室 (1671〜1717)

1671年(寛文11年) 旗本石川八郎左衛門義当(よしまさ)の二女(喜井)
    として生まれた。5代藩主広逵(ひろみち)の生母。

   広紀の跡を継ぎ、五代藩主となった広逵は、病弱で早世し、政務の殆
   どは、この蓮徳院跡見のもとに、6代藩主経永の治
世となり、当時、
   吉川家の最も力を傾けていた家格昇格運動のために活躍した。
1708年(宝永5年)実母の高瀬(幕府大奥の老女)をたよって幕閣へ働
   きかけついに秋元但馬守を動かすことに成功したが、結局不成功に
   終わった。
1617年(享保2年)2月8日 死没 47才

 法名:蓮徳院殿妙締日観大叔姉

 
 D 正理院(しょうりいん) 5代藩主広の室 (1696〜1781)

1696年(元禄9年) 京都栗田口青蓮院門跡の家臣栗原宗順忠良の
   娘として生まれた。名は多喜(たき)

 初めは側室として仕えたが、広逵の死から2年後の1717年(享保
 2年)、蓮徳院の思召しによって、正室に順ぜられた。6代藩主経永
 の生母。僅か2才で藩主となった経永の後見として、蓮徳院の跡を
 受け、相変わらず家格昇格運動に尽くした。また 世に女丈夫として、
 享保年間の藩政を専断し、ことに幕府の老女外山をたのんで、家格
 の事に熱中したが、結局実現することは出来なかった。正理院は、
 蓮徳院と共に岩国藩政治を誤らせた人であると、岩国市史は記述して
 いる。

1781年(天明元年)1月13日 岩国仙鳥屋形で没した。 86才
 法名:正理院妙常日久大比丘尼

 
 E
 瑞蓮院
(ずいれんいん)  6代藩主経永の室 (1713〜1769)

1713年(正徳3年)、旗本中条大和守信実の娘として生まれた。
1734年(享保19年)に経永と婚礼の式をあげた。
1769年(明和6年)5月25日没した。57才。

 法名:瑞蓮院殿徹底妙心日境大比尼
 
 
 F 華厳院(けごんいん)  7代藩主経倫の室(1755〜1776)

 1755年(宝暦5年)、播州小野藩藩主一柳末栄(ひとつやなぎすえなか、
      1万石、兵庫県小野市)の娘として生まれた。名前 多芽(ため)
 1771年(明和8年)岩国横山館において、婚礼の式をあげた。
 1776年(安永5年)5月18日 死没 22才

 法名:華厳院殿梅玉妙聯大姉

 
 G 喬松院(きょうしょういん)  8代藩主経忠の室 (1785〜1844)

1785年(天明5年) 丹波柏原(かいばら)藩主織田信憑(のぶより
       2万石、兵庫県氷上郡柏原町)の娘 悌(てい)
1799年(寛政11年) 婚礼の式をあげた。
1844年(弘化元年)12月31日 死没 60才

 法名:喬松院殿妙境悌大比丘尼
 
 I 円成院(えんじょういん)  10代藩主経礼の室(1795〜1813)

1795年(寛政7年) 豊後国日出(ひじ)藩主 木下俊懋(としまさ)
     2万5千石、大分県速見郡日出町)の娘として生まれた。 隆(たか)
1810年(文化7年)の婚礼の式をあげた
1813年(文化10年)6月11日 死没 19才

 法名:円成院殿妙実日相大比丘尼
 
 
 K 順子夫人  12代藩主正室      (    −1891)

          備中足守藩主 木下利恭の娘 順子
1849年(寛永2年) 婚礼の式をあげるた
1891年(明治24年)2月7日 死没 57才
  
 吉川家納骨堂


 岩国藩吉川家の墓は、吉川家墓所に6代藩主を除く初代藩主から12代藩主や奥さん、子供の墓があり、実相院の墓所に6代藩主と13代藩主の墓があります。吉川家は、1964年(昭和39年)に吉川家墓所内の吉川家所有の土地に吉川家納骨堂を建立し、吉川家のそれ以降が安置されている。納骨堂の正面の「蛇の目9曜の紋」は吉川家の家紋で、屋上のつくりは上空から見ると、この家紋を型どっている。

  
 みみずくの手水鉢

木莵(みもずく)の手水鉢は、広島藩浅野家の家老で、安土桃山時代(1573〜1600)の有名な茶人であった上田宗箇が吉川広家に贈ったものと言われたいる。
これより先に、広家より桜の木が贈られ、その返礼としてこの手水鉢が贈られたものである。広家と上田宗箇はかねて、上方において茶会などで親交があったが、この手水鉢が宗箇から、広家に贈られた時には、既に広家の没後であったため、使者は止むを得ず、今津(岩国市)浄念寺の庭に置いて帰った。二代目広正から浄念寺に寄贈され、1907年(明治40年)吉川家がこれを譲り受け、現在の場所に移された。
この手水鉢は、その意匠の豪快さ、伝来の正確さから、珍しい名品で優れた芸術品と言われている。

  
 誰ケ袖の手水鉢


 誰ヶ袖(たがそで)の手水鉢は、茶人古田織部(おりべ)の高弟で、小堀遠州(1579〜1647)が、京都大徳寺境内の孤蓬庵に隠居していた時に造られたといわれ、小堀家の末家に伝えられていたもので、1846〜1847年(弘化3,4年)の頃、吉川家に贈られたものである。この手水鉢は、三節の手水鉢と呼ばれて、次の來歴から来ている。
 一の宗匠(そうしょう)、上の水溜(みずだめ)を掘る
 二の宗匠、右下の欠入(かけいりを掘る
 三の宗匠、中の丸穴を掘る
 尚、この手水鉢の実物は、後に毛利家へ贈られ、ここにある手水鉢は写しであるといわれている。
 
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吉川家墓所内のご案内

吉川家墓所は、年中無料で見学出来ます。事前に予約されるか、表紙に記載された期間内の土日祭日には観光ボランティアガイドが墓所内をご案内致しますのでご利用下さい。

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みみづく
の手水鉢

誰ケ袖
の手水鉢

歴代 No 藩主 No 正室
初代 広 家
2代 広 正 A 高玄院
3代 広 嘉 B 天長院
4代 広 紀 C 蓮徳院
5代 広 逵 D 正理院
6代 経 永 E 瑞蓮院
7代 経 倫 F 華厳院
8代 経 忠 G 喬松院
 9代 経 賢
10代 10 経 礼 I 円成院
11代 11 経 章
12代 12 経 幹 K 順子夫人

歴代藩主と正室

下表の藩主又は正室の名前をクイックしますと
説明が表示されます。

慈光院(吉川元春正室)

吉川納骨堂

吉川納骨