1  錦帯橋
                  錦帯橋 あれこれ
        
 錦帯橋は山口県最大の河川である錦川(川幅約200m)の架かっいる5連の木造橋であり、今から約330年前の1673年(延宝元年)、第三代藩主吉川広嘉によって創建されました。
 岩国藩の悲願である流れない橋として誕生したこの橋は、創建翌年の1674年(延宝2年)5月の梅雨の洪水によりあえなく流失したが原因を徹底的に究明し、同年10月末に二代目錦帯橋が完成しております。それから、276年間不落を誇った錦帯橋でしたが、1950年(昭和25年)9月に岩国地方を襲ったキジヤ台風によって2度目の流失をしてしまいました。

 しかし、岩国市では橋脚に近代工法を取り入れるなどして直ちに再建工事に着手し、三代目錦帯橋は1953年(昭和28年)しました。以来、半世紀にわたって人々を渡し続けてきた錦帯橋ですが、木造橋の宿命である腐朽による傷みが見られるようになったため、2001(平成13年)年から平成の架け替えが行われました。このこの架け替えは、木造部分(橋脚部分を除く)を現橋の形・構造通りに原形修復し、総工費26億円を要する大事業となり、2004年(平成16年)3月四代目錦帯橋が完成しました。


 2 鵜飼   場所:錦帯橋上             錦川鵜飼振興会HP

 岩国の鵜飼は、寛文時代(1661-1672年)三代藩主広嘉の青年時代から始められ、一時期中止していたが、1947年(昭和22年)復活し、現在に及んでおり、錦帯橋の下で、毎年6月1日から8月31日までの間、夕刻に鵜飼が行われている。
鵜飼とは、鵜と鵜匠が一心同体となって手縄を使って篝火のもとでアユを獲る漁法です。手縄は檜の木質部を繊維として鵜匠自身が作ります。この縄は大変強いのですが、逆に捻ると直ぐ切れるという特徴があり、水中で鵜が障害物にかかった場合、鵜匠が縄を切って鵜を助けます。
 鵜匠の服装は昔のままの伝統を踏襲し、頭にかざ折帽子、衣裳をつけ、胸あて、腰に腰蓑をつけ、足に足半を履きます。

 
 3 槍倒し松(やりこかしのまつ)

 岩国藩士の心意気と言われるものに、「槍倒し松」というのがある昔の山陽道は、徳山から玖珂ー岩国御庄ー多田ー関戸ー小瀬ー大竹市中津原へ抜けるコースで、この上流にある岩国市御庄近くでは、渡し舟が利用されていたのである。

 ところが、大雨が続くと川が氾濫し、渡し舟が止まり、参勤交代などで江戸を往復する西国の諸大名は、吉川藩に願い出て、吉川家の所有である錦帯橋を渡してもらっていた。大名行列が藩の要所を通る時は、行列の槍を倒すのが礼儀となっていたが、わずか6万石の岩国藩を馬鹿にして、誰も倒す者はいなかった。 悔しがった知恵者が、近くの山から枝ぶりのよい松の木を持ってきて錦帯橋の袂に植えたところ、行列の槍は嫌でも倒さなければならなくなり、岩国藩士は手をたたいて大喜びしたという。しかし、本当に意識して植えたという記録はない。

  
 4 巌流ゆかりの柳

「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名を小次郎と親からもらい、また 剣名を”巌流”とも呼ぶ人間は、かくいう私であるが・・・」吉川英治の小説「宮本武蔵」の一節である。

 吉川英治は、錦帯橋-柳の木ーつばめーつばめ返しー巌流ーと連想して、「佐々木小次郎が、錦帯橋畔で柳の枝が燕を打つのを見て「燕返し」の術を得た」と、岩国に来て自ら創作し、剣聖「宮本武蔵」の背景を見事に写し出したものである。
これにちなんで、錦帯橋の袂の柳古木を「巌流ゆかりの柳」とし、新たな観光名所となっている。

 
 5 吉川広嘉公銅像

  錦帯橋を渡った正面の銅像は、錦帯橋を創建した岩国藩三代藩主吉川広嘉公で、世界に誇る錦帯橋創建の偉業をたたえて建てられたものである。しかし、岩国藩では、どうしたことか、二代藩主から十一代藩主までの肖像画が残されていない。そこで、致し方なく初代藩主と、子孫の方の肖像画と写真を合成して作られたのがこの銅像である。「これは、西郷さんに似ている」と言った人があるが・・



   香川家長屋門

 香川家は、岩国藩五家老の一家で、この長屋門は、1693-1694年(元禄6,7年)頃、香川正恒1702)が建てたものである。また 岩国市における建造物としては最も古いものの一つで、当時の様式をよく残しているとして、1966年(昭和41年)に山口県指定文化財となっている。

 この門は、市内散畠の名匠大屋嘉左衛門が一代の丹精を込めて建造したもので、総建坪40坪、門扉から屋根瓦にいたるまで結構を極め、特に瓦には1個1個家紋を刻し、その宏壮な建築は江戸時代の武家造りの粋を極めたものと称せられる。
 門は、向かって右側から、馬小屋、板敷きの剣武道場、仲間部屋、正面大扉の左側が、茶室を組み入れているという様式は、非常に珍しいと言われている。
 香川氏は、初め芸州(広島県)八木城主で、吉川広家が岩国の移封された当時、客分から家老に取り立てられた名門で、為政者や歌人など優れた人材を輩出している。


   吉香公園

 吉香公園は、旧吉川氏の居館跡を明治維新後に整備し、後に旧岩国高校跡を含め、1973年(昭和48年)に現在の城山を背景にした広々とした公園となりました。錦帯橋を渡った正面の公園入口には、岩国3代藩主吉川広嘉の銅像があり、園内には、香川家長屋門、旧目加田家住宅、吉香神社、錦雲閣などの歴史的建造物が点在し、それらを取り囲む梅、桜、つつじ、ぼたん、藤、花菖蒲、アジサイなどの花々が次々に咲き乱れる。大放射噴水、ゴロタ噴水なども変化を与え、観光客や市民への憩いをかもして興趣は尽きない。

 
  旧目加田家住宅

 目加田家は、近江国愛知(えち)郡目加田村の出身で、1573年(天正年間)吉川元春に召抱えられ、文政年中(1818-1829)には、御用人役として、170石取りで、岩国藩では、客分としての高禄の家柄であった。
 
この建物は、18世紀中ごろ(江戸時代中期)の建物とみられ、簡素ながら本格的な中級武家屋敷として当時のままの姿をよく保存されており、全国的にも数少ないとされ、1974年(昭和49年)に国の重要文化財に指定された。

 
正面に式台があり、右側には格子窓のついた仲間部屋など、武家住宅らしい形式が整えている。また 裏に面した部屋の上部には、錦川の氾濫や増水時のすき水に備えた中二階が設けられているが、窓は裏側だけで、正面からは平屋に見えるという造りになっている。
 一階部分の総部屋数は、二つの板敷きの間を併せて11室となっている。屋根瓦は、江戸時代、岩国地方だけに製造されていた珍しい「両袖瓦」が使われている。
 1994年(平成6年)に亡くなった中国文学者で九州大学名誉教授、目加田誠先生は、1989年(平成元年)、新しい年号制定の詰問委員として、「平成」の年号制定に参加した。

 
  岩国のシロヘビ                白蛇保存会HP
 
 シロヘビは長さ180cm、胴回り15cm余り、目はルビーのように赤く、全身は白く光沢があり、清楚な姿でとても神秘的である。性質はおとなしく温順で人に危害を加えることもない。
 このシロヘビの最初の記録として残っているものは、今からおよそ250年前に書かれた「岩邑年代記」である。そこには1738(元文3年)年6月、千石原(岩国市横山3丁目)に出現と記されている。
 シロヘビの誕生がいつ頃かは不明であるが、約380年前、関が原の戦いで岩国に移封された岩国藩初代藩主吉川広家が錦見一帯で米作りに努めた頃、多くの米倉でネズミを餌にしていたアオダイショウが色素細胞のない変種で、それを遺伝し生まれてきたとされている。当時の人々はこの珍しいヘビを、有益で幸運を呼ぶ家の守り神として大切に保護したと考えられ、その数も増したといわれている。

 1927年(大正13年)国の天然記念物に指定され、1972年(昭和47年)「岩国のシロヘビ」と指定替えされた。シロヘビは麻里布地区、川下地区に多く住んでいたが、近年は生息地域の都市化が進み、餌となるネズミ等の動物相も変化するなど、環境の変化により、その生息数は減少しつつある。
 「岩国のシロヘビ」は、文化財として貴重な国民的財産で大切に保存することを義務付けられており、岩国市の屋外飼育場で飼育されています。シロヘビの観覧はロープウエー乗り場前と今津資料館で見ることが出来ます。

 
 10 岩国美術館                岩国美術館HP

 西村重則初代館長が日本伝統の古文化財の散逸を防ぎ、保護保存して後世に伝える目的で蒐集した武具、甲冑、調度類等数千点を収蔵し、1963年(昭和38年)に開館した。
 
武家の表道具であった武具や奥道具として使われた調度品は、当時を物語る貴重な歴史史料ですが、中でも意匠をこらした甲冑や華麗な蒔絵調度は、単に実用的、機能的な用具というだけでなく優れた美術工芸品として人々を魅了しております。
 
開館時間 午前9時から午後5時  休館日/木曜日(祝日の場合その翌日)

 
 11 吉川家墓所
    墓所内のご案内  場所:紅葉谷公園入口

 墓所は、横山の通称寺谷地区に所在し、岩国に入府した岩国吉川家広家から、6代経永を除く12代経幹までの当主及びその一族の墓が51基あり、指定面積は9615m2である。
 墓所が形成されたのは1625年(寛文2年)広家が没した年からであるが、墓所の中心を占める寺谷口御塔場は、2代広正が没した翌年の1667年(寛文7年)、3代広嘉によるもので、独立禅師がこの場所を選定した。石工は大阪から調達され造営された。

 岩国藩御用日記に1679年(延宝7年)に造営された3代広嘉(玄真院)の石塔建立には、350−360の人夫が当たったと記録されており、いかに大工事であったか伺える。墓所には、墓石が51基、石灯篭が95基、手水鉢が9基ある。墓石の大半は、五輪塔で、当主や正室の墓石は3.5mを超えるものが多い。墓所の中には、茶人上田宗箇が広家に贈った「みみずくの手水鉢」や京都の小堀家から贈られた「誰が袖の手水鉢」など優れた工芸品も残され、石造文化財として貴重であると同時に、近世大名家の葬制を知る上でも重要である。1988年、山口県文化財の指定を受け、1996年修復され、一般公開された。

 
 12 永興寺 (ようこうじ)  場所:紅葉谷公園

 禅宗、臨済派のお寺で、鎌倉末期の1309年(延慶2年)、大内弘幸( -1352)によって創建された。本尊は、不動明王であったため、寺号も不動山永興寺となった。当時は、横山一帯が境内になっていて、堂塔が立ち並ぶ、壮麗な寺院であったようである。1542年(天文11年)、大内義隆が尼子氏を攻めた時、また 1555年(弘治元年)、陶晴隆が厳島の毛利元就を攻めた時、厳島戦争に勝った元就が防長に攻め入った時、本陣として利用された。
 大内氏が滅亡した後、毛利氏は大内ゆかりの寺を手厚く保護したが、吉川広家が入封すると、寺地を取り上げ、境内の建物や石垣などの城郭、居館への解体転用が行われた。しかし、1617年(元和3年)、周伯禅師(1549-1631)が招かれて再興、開山堂だけ残っていた現在地に再建した。元禄以降の本尊は、釈迦牟礼尼仏となっている。

 裏庭は、準平庭式枯山水庭園で、作庭に関する資料がなく、明確に作庭時代を判定することが出来ないが、北東の隅に茶室があったといわれ、その跡が確認されている。主庭は、龍安寺式の枯山水庭園で、原形は江戸時代前期と推定され、昭和時代に改修されたようである。現在の枯山水庭園は、七五三式の石庭である。1999年(平成11年)岩国市文化財に指定された。


 13 洞泉寺 (とうせんじ)   場所:紅葉谷公園

 禅宗、曹洞派のお寺で、室町時代安芸の国新庄(広島県山県郡大朝町)に、吉川経信によって創建され、寺号は、盤目山洞仙寺であった。吉川氏の岩国入りによって、1603年(慶長8年)ここに移されて、洞泉寺となった。本尊は釈迦牟尼仏である。江戸時代、吉川氏歴代の菩提寺として、筆頭であった。

 山門の前には、有名な「臥龍の梅」(枝が垂れて地につき、そこからまた根が生える)があり、樹齢390年を過ぎているそうだ。早春に開花し、訪れる人を和ませてくれる。他にも参道には、紅梅や白梅の古木が植えられている。県指定文化財の金銅如来像は、釈迦如来として信仰を受けている。

 
 14 六角       場所:紅葉谷公園内

 エキゾチックな建物は、「六角亭」と呼ばれるもので、1593年(文禄2年)朝鮮の役に出兵した吉川広家激戦の地、壁蹄館(へきていかん)を偲び、1918年(大正7年)に贈られたものである。周囲の紅葉や池になじんで、疲れた人の心を癒してくれる。
 この池の近くに江戸時代、真言宗、龍門寺があったところである。三代藩主広嘉の病気治療のため岩国を訪れ、錦帯橋創建のきっかけを作った独立禅師が、「一勺源水の水・・・」の漢詩を詠んだところといわれている。

 
 15 紅葉谷公園

 江戸時代この一帯は寺谷と呼ばれていた所で、寺院の庭園を公園として整備した園内には、朝鮮総督を務めた長谷川元帥が朝鮮から贈られたものを1918年(大正7年)に移築した六角亭や樹齢300年を超える臥竜の梅が香る曹洞宗洞泉寺、禅宗臨済宗永興寺などがある。錦帯橋から徒歩わずか数分の場所にあり、岩国城に登る登山口に、城山の豊富な樹種とともに、特に新緑と紅葉の時期の美しさは格別である。

 
 16 白山比盗_社 (しらやまひめじんじゃ)

  
社伝によれば、876年(貞観18年)加賀の白山神社を勧請、884年(元慶8年)社殿を創建、1370年頃(応安年中)火災に罹り、1388年(嘉慶2年)再興とある。慶長年間(1590−)吉川広家、出雲富田の庄より岩国に移封されてより、封内の鎮守と仰ぎ、吉川家歴世の産土神として崇拝せられる。
 1695(元禄7年)大鳥居の建立、享保年間(1716-)社殿の大造営、1729年(享保13年)に神社林として、城山の一部を奉納等、歴代の藩主の尊崇が厚い。 1873年(明治6年)縣社に列せられた。

 当時の社殿は壮麗豪華にして工作の妙を極めた殊に拝殿、樓門の如き精彩粉飾をつくし関西の東照宮といい伝えられたいたが、惜しくも1890年(明治23年)神殿、拝殿、回廊、樓門などの建築物が焼失し、1898年(明治31年)に再建した。しかし、2004(平成16年)年5月、
拝殿が放火により焼失し、2005年(平成17年)12月に完成した
 この神社は、安産の神として古くから崇拝者が多い。神社前の石鳥居は、1694年(元禄7年)4代藩主吉川広紀の寄進で、石柱は宇都宮沢遯菴(漢学者)の碑文がある。

 
 17 岩国城
                   岩国城周辺の散策

 関が原の役の後、1600年(慶長5年)出雲の国富田月山城から岩国に移った吉川広家は、ここ横山の山頂に天主を、山麓に居館を築くことにした。1601年(慶長6年)、城の縄張りを行い、山麓の「上の土居(かみのどい)」から工事が始められ、1603年(慶長8年)山頂で要害の起工式をあげ、1608年(慶長13年)に完成し、城番が置かれた。
 岩国城は、岩国では横山城と呼ばれ、200mの山の頂上に築かれた。築城に使われた石材は、この山の西南約1.5kmの峰づたいの標高250mの岩窟から運ばれた。
 山頂にそびえる白亜の天守は、桃山風南蛮造りの山城、3層4階の上に物見を置いている。「桃山風」とは、初期の天守のことであり、「南蛮造り」とは、岩国城の場合、3層目に屋根廂(ひさし)を付けず、3階より4階の方が大きく張り出している独特の構造のことをいう。これが、同じ南蛮造りの様式をもつ小倉城(北九州市)では、4層目に屋根の廂がなく、5階が4階より外にはみ出している。

 
岩国城は1608年に完成し、藩の象徴として仰がれていたが、7年後の1615年(元和元年)幕府の一国一城令により、山上の要害は惜しくも破却の運命に見舞われた。 以来、山下の居館だけで藩の政治は行われ、明治維新を迎えた。
 昭和30年代になって、再建の動きが活発となり、1962年(昭和37年)古図面をもとに、模擬天守が外観復元された。現在の天守の位置は、広家の創建当初、本丸の北隅にあったが、再建に当たっては、錦帯橋付近からの景観を考えて移された。
 最上段の物見よりは、眼下に蛇行した錦川、錦帯橋、城下町、遠く米軍基地や瀬戸の島々を展望できます。
 
2006年2月、財団法人日本城郭協会が選定した「日本名城百選」に岩国城が選ばれました。

 
 
 18 田中穂積銅像


867年(慶応3年)、岩国市千石原(横山3丁目)に生まれ、13才の時日新隊の太鼓手となり、のち 海軍に入り、海軍軍楽隊長となった。「黄海海戦行進曲」「軍人精神行進曲」など作曲したが、1900年(明治33年)の「美しき天然」は名曲として現在でも演奏されている。(1867-1904)1956年(昭和31年)に胸像が建てられ、1968年(昭和43年)には「美しき天然」の曲碑が建てられた。

 
 19 吉香神社


 の昔、吉川家の先祖の方々を祭る、お社は、治功大明神(吉川興経)、高秀神社(吉川経義)、鎮照神社(吉川広家)の3社が白山神社の境内にあった。明治維新の後、旧藩主の東京移住に際して、これらの3社を統合して、吉香神社とし、1885年(明治18年)、旧館跡に建立されたものである。現在は、始祖吉川経義(1133-1193)公から。13代岩国藩主吉川経健(1855-1909)公までの、29柱が祭られ、それ以外の先祖は、祖霊社に祭られている。この吉香神社の神殿は、治功大明神として、1728年(亨保13年)に造営されたものである。

 吉香神社は、鳥居、神門、拝殿及び弊殿、本殿が南から一直線に並んだ構成となっている。神門は、小型の四脚門で冠木中央に吉川家の家紋があり、拝殿は、入母屋造妻入りで背面に弊殿が張り出し、本殿は、三間社流造で正面に軒唐破風、千鳥破風が付されている。
 いずれも軸部から小屋組まで当初形式をよく保持されており、充実した細部を備えた丁寧な造りとなっている。特に本殿及び弊殿は独特な形式で複雑な架構と屋根形式を巧みにまとめていて、独自性が認められます。
 全国的にも数少ない祖霊を祀る神社建築で、全体に岩国藩大工に質の高い技術が窺え、地方における江戸中期の優品として、高い価値が認められ、2004年(平成16年)に国指定重要文化財に指定された。


 20 錦雲閣

 藩政時代に、南矢倉のあった所である。その跡に1886年(明治19年)吉香神社の絵馬堂として建てられたものである。
 正面に、芦野文亀(ぶんき)の描いた鍾馗(しょうき)の絵が掲げられているほか、現在で目ぼしい絵馬は残っていない。
 
「鍾馗」は、中国での疫病(やくびょう)神を追い払う神として信仰されており、岩国では、疱瘡(ほうそう)に対するお守り札とされていた。

 
 21 徴古館
                   
岩国市徴古館HP

 岩国徴古館は、吉川報効会によって、1945年(昭和20年)に完成した郷土史博物館である。設計は、旧岩国中学の先輩で、建築音響学の分野を開拓した、佐藤武夫(1899-1972)元早稲田大学教授の若き日の作品で、洋式レンガ壁、木造瓦葺き、2階建てとなっている。1951年(昭和26年)、岩国市に寄贈され、藩政時代からの各種の資料が収められており、その一部を常時展示している。
 また 郷土史研究の場として、資料の閲覧や研究会場にも利用されている。1998年(平成10年)1月17日に国指定登録文化財となった。


 22 旧吉川邸厩門(うまやもん)

 厩門と呼ばれるこの建物は、旧岩国藩の13代藩主吉川経健の邸宅に付随する長屋で、1892年(明治25年)に建てられたと考えられる。この厩門は、幅の狭い堀を隔てた石垣の上に建ち、外観は江戸時代の門長屋を踏襲した形式である。正面外壁は漆喰壁とし、軒裏まで塗り込め、腰部が簓子(ささらこ)下見板張りとしている。虫籠窓を4箇所あけ、門寄りの角部に物見の窓を設けている。以上のような伝統的な形式を保ちながら、寄棟屋根であること、軒蛇腹を有するなど、洋風のデザインを取り入れている。また 建物の東寄りに、両開きの扉を持つ門を設けていることもこの建物の特色である。

 この厩門には、門番所・厩・物置などの機能を備えていたと考えられ、明治期の長屋であるので、厩舎及び馬車の車庫としての用途も推測される。吉川邸の主要な建物2棟が岡山の後楽園の移築されたことは残念であるが、今なお、旧吉川邸敷地内には、本厩門をはじめ、御家廟、吉香茶室、土蔵など明治期の建物が残っている。

 
 23 吉川史料館                  吉川史料館HP

 吉川史料館は、800年もの歴史をもつ吉川家に伝来した歴史資料、美術工芸品を数多く収蔵し、また 吉川家文書、吾妻鏡、太平記などの歴史資料の多くは、国の重要文化財に指定されて、中世史研究の重要な史料となっている。
 また 数多くに美術工芸品は、国宝の太刀「狐ケ崎(青江為次作・鎌倉時代)」、国重要文化財「繍箔胴福(豊臣秀吉より拝領の陣羽織・桃山時代)」など、吉川家が大切に保存してきたもので、美術的にも工芸的にも高く評価されたものを所蔵している。

 これらの吉川家の武具や刀剣、古文書、美術工芸品などの所蔵品と岩国藩に関する資料などを展示している。
 
休日/水曜日(祝日の場合は翌日) 時間/9時-17時(入館4時30分)

 
 24 佐々木小次郎銅像

 
「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名を小次郎と親からもらい、また 剣名を”巌流”とも呼ぶ人間は、かくいう私であるが・・・」吉川英治の小説「宮本武蔵」の一節である。
 「宮本武蔵」は、江戸時代から、講談などで長く語りつがれてきたものであるが、吉川英治は、錦帯橋-柳の木ーつばめーつばめ返しー巌流ーと連想して、「佐々木小次郎が、錦帯橋畔で柳の枝が燕を打つのを見て「燕返し」の術を得た」と、岩国に来て自ら創作し、剣聖「宮本武蔵」の背景を見事に写し出したものである。「佐々木小次郎」は架空の人物で、岩国とは歴史的なつながりはない。

 
 25 吉川経家弔魂碑


 天下統一を目指す織田信長は、1580年(天正8年)6月、羽柴秀吉をつかわして鳥取城攻めを開始した。鳥取城主山名豊国は、城内の多数の意見を無視して秀吉に降伏し、城外に脱出した。豊国の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主 吉川経家を城督とした。1581年(天正9年)3月、経家が入城し城内を調査したところ、貯蔵された食料がわずか3ケ月分位しかなく、食料の補給を図ったが、城内に搬入しょうとする輸送船は、全て秀吉軍に捕獲された。

 
時日が経過するに従って餓死する者が続出し、その惨状は言語に絶した。開城の条件として、城兵全員の救助を誓約し10月25日、「天下を争う織田、毛利両家の二つの御弓矢の場で切腹する自分は名誉に思う」という遺書をしたため、城内広間において35才の命を絶った。その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。その英魂を弔うため、1939年(昭和14年)弔魂碑が建立され、磁石に鳥取城の石12個が使用されている。尚、この場所は、江戸時代にその吉川氏の屋敷のあった所である。
 

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錦帯橋周辺の観光マップ

錦帯橋、吉香公園内、岩国城などの名所・旧跡の観光マップです。マップ内の番号か下の表内の名所旧跡の名前をクリックして下さい。説明文が表示されます。

1  錦 帯 橋 2  鵜 飼 3  槍倒しの松
4  巌流ゆかりの柳 5  吉川広嘉公銅像 6  香川家長屋門
7  吉 香 公 園 8  旧目加田家住宅 9  白蛇観覧所
10  岩国美術館 11  吉川家墓 12  永 興 寺
13  洞 泉 寺 14  六 角 亭 15  紅葉谷公園
16  白山比盗_社 17  岩 国 城 18  田中穂積銅像
19  吉 香 神 社 20  錦 雲 閣 21  徴 古 館
22  旧吉川邸厩門 23  吉川史料館 24  佐々木小次郎銅像
25  吉川経家弔魂碑

1 錦帯橋 

2 鵜飼

3

4

5

6香川家長屋門

7吉香公園

8旧目加田家住宅

9白蛇観覧所

10

11

12

13

14

15紅葉谷公園

16

17岩国城

18

19吉香神社

20

22

21

23吉川史料館

24佐々木小次郎像

25

永興寺

吉川家墓所

洞泉寺

六角亭

旧吉川邸厩門

徴古館

白山比盗_社

錦雲閣

槍倒しの松

巌流ゆかり柳

吉川広嘉公銅像

吉川経家弔魂碑