boomerさんのボディビル小説

ライバル達の唄

2006.9.13(連載開始)

第一章

吉岡修司と、宮本護は学生時代からのライバル同士である。



二人とも同じ大学のボディービル部。入部の日にちまで同じだった。

デビューも同じ、大学三年時の『関東学生ボディービル選手権大会』

その時の成績は、修司6位、護12位。
高校時代に、水泳をやってた修司と、新聞部だった護、その時の貯金の差がモロに出た形だった。

しかし修司が護に勝ったのは、これが最初で最後であった。
4年時の同選手権では、修司5位、護3位…
そして学生最後となる『日本学生ボディービル選手権』では、修司4位、護は遂に2位と、 学生最大の大会の表彰台に立ってしまう。



二人は、ステージを離れると親友だった。
トレーニングは毎回二人一緒だった。
練習量もほぼ同じ、食事も常に同じ物を食べていた。
しかし、大学を卒業する頃には、中学、高校とずっと運動部だった修司を、入学時には全く運動経験の
な かった素人の護が追い抜く形となっていた。


二人の立場は僅か4年の間で大きく逆転していたのだった。
別に修司の伸びが停滞していた訳ではない。
それどころか、むしろ年々順位を伸ばしていた。

しかし、それ以上に護の成長速度が、半端ではなかった。
二人に決定的な筋肉量の差がある訳ではない。
身長もそんなに変わらない。
しかし、どちらかといえば寸胴気味な修司に対して、護は、生まれつき細い腰骨、 広い肩幅と申し分ない骨格を持っていた。
そこに 徐々に筋肉がついてくると、細いウェストから まるで翼の様に拡がる背中のラインは、 息を飲む程 美しくなっていった。


そう、二人には 努力だけでは埋める事の出来ない遺伝的素質の差があったのだ。
ある海外の有名ビルダーが『ボディービルで成功したかったら親を選べ』と言った事がある。
それ程、ボディービルにとって素質は 大きな要素を占めるのだ。


それでも二人は親友だった。あの事があるまでは…


二人の所属するボディービル部には、美奈子という1学年下のマネージャーがいた。
修司はこの 小柄で聡明な女性マネージャーに、ずっと思いを寄せていた。
卒業する際、思い切って修司は彼女に想いを伝えた。
『卒業しても 逢って欲しい。出来れば付き合って欲しい。』と…
しかし 彼女の答えは『NO』だった…
理由は『2年程前から、宮本先輩と付き合っているから』と言うのだ。


修司はショックだった…


美奈子にフラれた事も もちろんだが、親友だと思っていた護が、その事実を隠していた事が…
常に行動を供にしてきた修司の気持ちを、護が気付かない訳がない…
これは裏切り以外の何物でも無い。

『アイツは、俺の気持ちを知っていて、上から それを馬鹿にして見ていたんだ!』

次第に修司の護への気持ちが憎しみに変わった。
『絶対にアイツにだけは負けたくない!』



大学を卒業して、修司は大手の商社、護は母校の英語教師に就職が決まっていた。
しかし、修司は この就職先を断り、スポーツクラブのインストラクターの道を選んだ。
もちろん、親や大学関係者は猛反対だ。
だが、社会人でコンテストを目指すには、商社マンの多忙な毎日では、無理だと悟った 修司の意思は固かった。


『全てが アイツに勝つ為に…』


社会人としての最初のコンテスト、K県ボディービルコンテストでは、修司は予選落ち…改めて社会人の レベルの高さを思い知る形となった。
ちなみに その大会で護は8位に入賞している。


翌年も修司は予選敗退、護は6位まで順位を伸ばした。


この年の暮れ 護と美奈子の結婚式の招待状が届いた。
しかし修司は その返事さえ出さなかった。


翌年 修司は7位と初入賞を果たす。
ところがこの年、護はオフをとりコンテストに出場してはいなかった。

『どうしてもアイツに勝ちたい…』

翌年 徹底的に絞りに徹した修司は、3位と大躍進を遂げる。
だが この年の県チャンピオンには、墜に護が輝いたのであった。


もはや県のタイトルを獲った 護が翌年以降、県大会に出てくる筈がなかった。


翌年 まことしやかに『宮本は、日本クラス別に出場するらしい。』という噂が流れた。
『日本クラス別』とは体重別の日本一を決める大会。各階級の入賞者数は、僅かに6名。
もし入賞出来たならば、それだけで非常に名誉な事である。

『宮本のアウトラインならば通用するのではないか』

『否、まだまだ無理だ』

修司の元にも、さまざまな憶測が流れる。
この時、修司はある決意を固めていた。
前年の仕上がり体重、修司67Kg 護69Kg…

同じ階級である…

護の出場しないコンテストに、修司は興味も未練もなかった。
通用するかどうかは別として、前年県大会3位の修司にも、一応『日本クラス別』の出場権はあった。


この年の『日本クラス別70キロ級』のエントリー表には



ゼッケン5番 吉岡修司 167cm 67Kg



ゼッケン11番 宮本護 170cm 69Kg



と、二人の名前があった…







もう何度も同じ事ばかり言われ続けて来ただろうか?

その度に、吉岡修司は唾を吐き捨てたくなる心境だった。


修司の所属する MCジム。
そこのオーナー牧の口から また同じ言葉が ついて出る。

『もう一度 よーく考えてみろよ!』

最初は優しく話かけていた彼も 修司の固くなな態度に、つい語尾が荒くなる。
彼の言い分は、通用するかどうかも分からない『日本クラス別』なんかに出場するよりも、
優勝のチャンス大の県大会に専念するべきだと言う事だ。
特に今年は 宮本護という強力なライバルがいない。
おまけに去年2位の 岩田文男も調整が遅れているらしい。
となると 去年3位の修司が優勝レースの大本命となる。
彼の経営するMCジムから、初の県チャンピオンを輩出する またとないチャンスなのだ。

しかし、当の修司に全くその気が無い。
『いい加減にしろ!今更 宮本の背中を追いかけても、アイツは もうとっくにお前なんかの前に行ってる んだよ!』
牧は吐き捨てる様に言った。


『失礼します。』


”牧”がまだ何か言おうとするのを 遮って修司は外に出た。
ジムから駅までの夜道を歩く。
梅雨入りしたばかりの 夜風は生暖かい…


『ケッ!』あまりの胸糞悪さに 唾を吐き捨てる。

"ケツの穴の小さなジジイめ!目先の欲にだけ捕らわれやがって…"

修司は、本来入るべき筈の駅の前を通り過ぎる。
駅を過ぎ 5分程歩いただろうか、修司はあるマンションの前で、立ち止まり そこの501号室を見上げる…


このマンションは…


結婚した 護と今や宮本という姓になった美奈子が、暮らすマンションだ。
すでに、部屋には灯が燈っている。
別に まだ美奈子に未練が残っている訳ではない。
ただ修司は気持ちが萎えそうな時、くじけそうな時、ここに立ち あの部屋の灯を眺めるのだ。

そうすると、フツフツと闘志が湧いてくる。


俺はやっぱり変なのか…?


この歳で 付き合っている女性もいない…それどころか今だにフリーターの様な毎日だ…

もともとの原因は たかが女にフラれただけじゃないか…

それを何年も根にもって、一人ウジウジと拘っている…

結局 お前は護が羨ましいだけなんだ…

美奈子という女性を手に入れ、有り余る程のボディービルの才能に溢れている 護に嫉妬しているだけなんだ…

そして、その嫉妬の炎が薄れそうになると、二人の愛の巣である、あの部屋の灯を見つめて 再び闘志を 燃えたぎらせる…

果たして これが正常な人間のする事だろうか…?

結局俺は、この感情無しでは 生きてはいけない人間なのだ…



゛どうして お前はそんなに護を憎むのか?゛


分からない…


゛まだ 美奈子の事を引きずっているのか?゛


それは無い…今では美奈子の顔さえ思い出せない程だ…


゛じゃあ、何でここに来る?゛


それは 少し分かる…ここに立った時に湧き上がる感情が、今の俺の原点だから…


俺は護に勝ちたい…

とにかく勝ちたい…

否、勝たなければならない…

明らかに肉体的優位性で劣る 護に勝った時、今まで見えなかった世界が見える筈だ…


その為に やるべき事は 去年はっきりとした筈だ…

とにかく 絞る事だ…

皮下脂肪の一切無い、皮一枚の仕上がりを実現させる事だ…
持って生まれた プロポーション、アウトラインでは、絶対に太刀打ち出来ない護に対して、
絞る事によ り出現する 筋密度、カット、ストリエーションで勝負をする…

それらは決して 俺を裏切らない…

去年、俺は初めて極限まで絞り込んだ…

ステージに立った瞬間の客席のどよめきが、今でも耳に残っている…

それは今までになかった反応だ…


結果、俺は3位 アイツが優勝だった…


しかし、あれは絶対に俺が勝っていた…

その証拠に、3位で俺の名前が呼ばれた時の 客席のざわめき、ブーイングは凄かった…
俺自身も 対宮本護に関して 初めて手応えを感じていた…
しかし、県大会の審査員の頭の中には『吉岡は、決して宮本には勝てない。』という先入観が 出来上がっていた…

長年の結果がそう信じこまてしまったのだ…
この差は大きかった… そう俺は 審査の壁に破れたのだ…

しかし、今年は違う…

二人とも 初の全日本の舞台… どちらも全国的には、全くの無名なのだ…

審査員は 全く白紙の状態で二人を見てくれる…

そう、全国レベルの質の高い審査員が…

必ずこのチャンスを生かしてやる…

入賞なんて 俺にはどうでも良い事なのだ…

とにかく、護にだけ勝てれば良い…

その為に、去年以上に絞り込む…

過去最高の仕上がりで、ラインアップから審査員の目を奪ってやる…


もう 炭水化物は ほとんど摂っていない…
時々、凄い目眩に襲われるが、むしろ それが仕上がって来ている合図なのだ…
物忘れが激しくなる事さえも、嬉しく思えてくる…



翌日、ジムを訪れた修司に対して、オーナーの牧が、話掛けて来た。
内容は、『日本クラス別』の出場を許可する代わりに、その2週間前に行われる県大会に出場しろ と言う物だった。
ボディビル連盟では、所属ジムの許可が無ければ どんな大会にも出場出来ない。

しかし、大目標の『日本クラス別』の前に一度ピークを迎える事は、修司にとって凄いリスクだった。
ベテランの中では、狙った大会の前に 一叩きする選手も沢山いるが、まだ経験の浅い修司にとって 2週 の間に2度もピークを作るのは、至難の業だ…
修司は悩み抜いたが、この条件を呑まない事には、護の待っている舞台に辿り着けない…



結局、『日本クラス別』2週間前の『K県ボディービルコンテスト』の舞台に 修司は立っていた。
その大会は、まさに修司の独壇場だった。
少し癖のある 体型ながら、筋密度が他の選手とは、大人と子供程の開きがあった。
骨まで達する様なスーパーカットの前では、他の全ての選手が霞んで見えた。

結局 修司は、予選、決勝とパーフェクトスコアで優勝した。
おまけに『モーストマスキュラー賞』『ベストポーザー賞』と全ての賞を総ナメにした。
優勝が決まった瞬間の牧の喜び様は凄まじく、まさに修司に頬ずりをしないばかりの勢いだった。

しかし 修司は少しも嬉しくなかった。
このステージで、護を下すまでは決して喜ぶ日は来ないだろう…
さぁ、本当の勝負は、2週間後だ…


ところでこの日、客席からステージの上の修司の姿を、驚愕のまなざしで見つめる一人の男がいた。



宮本護であった…






何とも言えない戦慄が、宮本護の背中に疾った!



『噂には聞いていたが、これ程とは…!』

『K県文化会館』中ホールは、この日ボディービルコンテストの県大会が行われていた。

一般の部 予選審査…
出場選手が、一斉にラインナップする。
『お〜!』客席から、どよめきとも 溜め息ともつかない感嘆の声が上がる。
皆の目が、一人の選手に釘付けになる。
ゼッケン6番 『吉岡修司』である。


とにかく、バルクが違う。


特に その脚は バルク凄まじく、涙腺型に大きく広がっている。
上半身は、若干広がりに欠けるが、それを補う程に、肩 胸 僧帽筋が、まるまると膨れ上がっている。

そして、特筆すべきは その仕上がりだ。
まさに、命を削る程のカットが、全身を駆け巡らせている。
頭の天辺から 爪先までキレまくっている状態だ。
元々、脚のバルクに定評のある選手だった。
そのうち、上半身が下半身に追い付くにつれ、少しずつ順位も伸びてきた。

それが、去年あたりから仕上がりの方も、グンと良くなって来た。
そして、今年のこの変貌ぶり…
まさに ラインナップで既に優勝が決まった感じだ。



宮本護は去年 この大会を制している。


その時の3位が彼だった。

しかし…


『実際は 吉岡の方が勝ってたのではないか?』

そういう噂が、巷でながれた。
『宮本が勝てたのは、今までの貯金のおかげだ。』とも…
それらの声は、護にとっては屈辱以外の何物でも無かった。


『吉岡修司』 彼の事は、他の誰よりも良く知っている…




初めて 彼と出会ったのは、大学1年の春だった。
中学、高校とずっと文科系だった護は、鍛え上げられた 逞しい身体に憧れて、 大学のボディービル部の門を叩いた。

同じ日に 入部をして来たのが修司だった。

『無愛想でゴツゴツした奴』

それが 護の修司への第一印象だった。
中学、高校と水泳で鍛えた修司の身体は、新入部員の中でも際立っていた。
特に、その下半身は上級生でも太刀打ち出来ない程の物だった。
一方の 護は 骨と皮だけで、新入部員一のガリガリだった。

『凄い…いつかは俺も、あんな身体になれるのだろうか?』
護はいつも羨望の眼で、修司の身体を眺めていた。

ボディービル部の練習は厳しかった。
最初 13人いた新入部員も 一人抜け…二人抜け…
夏休みになる頃には、護と修司の二人だけとなった。

先輩達にしてみれば、修司が残ったのは当然としても、一番最初に根を上げると思っていた 護が残った事は意外だった。


最初に護の素質に気付いたのはOBの大河だった。
大河は、日本選手権でトップ3に残る程の、大物OBだった。
夏休みの合宿のコーチに来た大河は、上半身裸で懸垂運動をする ガリガリの1年部員の背中を見て 『ほぅ。。』と感嘆の声を上げた。

この日 大河は、主将の松井に『あのゴツゴツしたのと、もう一人のガリガリと、今年は面白い新入部員
が残ったな。特に あのガリガリは鍛え様によっては、とんでもない選手に化けるぞ。』と言っている。


無愛想な修司と、どちらかと言えば人当たりの良い護。


この正反対の性格の二人は、意外にも妙に馬が合った。
大学2年生になる頃には、来る日も来る日も、勉強はそっちのけで、 お互いの下宿でトレーニング談義に花を咲かせた。
練習も二人常に一緒だった。

とにかく、オーバートレーニングも何もない。ただガムシャラにバーベルに食らい付いた。
最初の頃は、修司の使用重量に圧倒されっぱなしだった護も、2年生の終わりの頃には、 だんだんとそれに追い付いて来た。
それに 連れて身体も 猛スピードで変わっていったのだ。
特に背中の成長は、著しく 見る見るうちに、逆三角形の 美しい身体に変貌して行った。
もはや 背中のラインでは完全に 修司をも凌駕していた。


コンテストデビューも同じ3年の『関東学生ボディービル選手権』だった。


この大会で、護はギリギリの12位入賞。
修司は 6位と3年生としては、唯一トップ6に残った。
『やはり、まだまだ修司には敵わない…』
それが その時の護の感想だった。



護が丸山美奈子と付き合い始めたのは、その頃だ。
美奈子は、1学年下のボディービル部のマネージャーだった。
OBの大河の遠い親戚という縁で、半ば強引にマネージャーをやらされていた。
最初は、美奈子から護への告白から始まった。
護の方も美奈子には、好感を持っていた。
しかし… 護は、親友の修司が美奈子に思いを寄せている事に、薄々と感ずいていた。
不器用な修司が、一途に美奈子を想う気持ちは、護にも痛い程 伝わって来る。

だから、随分と悩んだ…

しかし 結局美奈子と付き合う事となった。
自分の気持ちに嘘はつけなかったのだ。
一刻も早く、修司にこの事を伝えなければ…
しかし時間が経てば経つ程、それは困難になっていく…

このまま、時間が経ち 卒業してしまえば…
そんな狡い考えを持った事も事実だ。


言わなければならない…


でも 言えない…



この頃から、護は意識的に 修司を避ける様になった。
いつの間にか、トレーニングも別々に行う様になっていた。
大河の紹介で、しっかりと設備の整ったボディービルジムに入会したのもこの頃だ。

そして4年の『関東学生ボディービル選手権』護は3位と、5位の修司を追い抜く事になる。
順位が発表された瞬間の、修司の唖然とした顔が今でも忘れられない。
しかし周りの声は『今回は、たまたま吉岡が甘かっただけ、しっかり仕上げて、一か月後の 全日本学生 選手権では、
吉岡が雪辱するだろう。』と言う声が大半を占めた。


しかし、結果は…


護が修司を返り討ちにする形となった。
この時 護は初めて、もはや修司は自分の敵では無い事に気付いた。


そして、卒業前 美奈子に告白をした修司は、初めて護と美奈子の関係を知り二人の前から 姿を消してしまうのである。



内定していた就職先をも断って…






外に出ると 雨だった…



昨日の朝から、ずっと降り続いている…

ジメジメとした梅雨の雨が、宮本護の全身を包み込む…

いつもならば、優雅な足取りで水溜まりを避けて歩く 護の足下はズボンの裾まで びしょ濡れだ。

(本当に この梅雨時の雨の様にウザい奴だ。)

それが 遂最近までの 吉岡修司への心情だった…


だが 今は…


どす黒いまでの、疑惑 嫉妬 そして嫌悪感…
それらの入り交じった感情が、護の胸を支配している…


宮本護と吉岡修司…


二人は 遂1時間程前まで、同じステージの上に立っていた…

『K県文化会館中ホール』 ミスターK県ボディービル選手権大会の表彰式…
今年度、新チャンピオンに輝いた吉岡修司に、前年度チャンピオン宮本護から、 トロフィーが手渡される…
本来ならば 最も感動的なシーンになる筈だ。
しかし両者が握手を交わす事も、目を合わせる事さえなかった。
二人の過去の経緯、2週間後の『日本クラス別』での対決を知る一部のファンは、 このやり取りに大喜びだ。


だが、いつもは冷静な筈の宮本護の眼が、感情的に吉岡修司を睨んでいた事に気付いた者はいなかった…

当事者の 二人を除いては…




妻 美奈子の様子が、最近明らかにおかしい…
最初に そう気付いたのは、今年に入ってからの事だ。
美奈子は 結婚してからも出版社勤めを続けていた。
二人の間に、子供はまだ無い…
去年の暮れあたりから、急激に日曜出勤が増えた。
最近では、夜も遅く 帰宅が夜中の12時を過ぎる事もある。
ここ最近は、夫婦の会話もほとんど無い。

二人の家庭は冷えきっていた…



『美奈子に他に男がいるのではないか?』



護の胸の中で、美奈子に対する不信感が急激に膨らみだす。
だが それを直接問い正したりする様な真似はしない。
護のプライドが、それを良しとしなかった。
ましてや、妻の後をつけたり 携帯をチェクしたりと そんなみっともない真似が出来る訳がない。

護は わざと気付かぬふりで、毎日を過ごした。
自尊心の強い護は、本当は どうすれば良いのか分からなかったのだ…


そして あの日…


今から1ヶ月程前の出来事だった…
珍しく 仕事とトレーニングを早く切り上げた護は、家路に向かっていた…
ここから、自分の住むマンションがよく見える。

501号室の部屋の灯は燈っていた。
既に美奈子が帰って来ていると思うと 自然と足取りも重くなる。
と、マンションの方から こちらに向かって歩いて来る人影が…
護は 反射的に身を隠した。
あの体型、歩き方、そして雰囲気 全てに見覚えがあった!
やがて街灯が、その人物の顔を照らす…


無愛想でゴツゴツした奴…
   

吉岡修司である!


『どうして、修司がこんな所に!?』
護は、混乱する頭で必死に考えた…
答えは、おのずと出て来る。
修司が、わざわざ ここまで来て逢いに来る人物…

美奈子しかいないではないか!

美奈子の男は、修司だったのだ!

学生時代 修司は美奈子に告白し、そしてフラれた。

原因は 護の存在だった…

しかし、わざわざ相手の住むマンションで逢う物だろうか?

否、修司ならば充分有り得る。あいつは俺を心から憎んでいる。


なんという屈辱…


護は、暫くその場を動けなかった。



あの日以来 美奈子とは口を聞いていない。
その分 トレーニングに没頭した。
目標の『日本クラス別』まで 今日で、ちょうど2週間だ。



今朝連盟のホームページに『日本クラス別70キロ級』の顔触れが発表されていた。

入賞者6名に対して エントリー数12名。

そんなに多くは無いが、物凄い顔触れだ。

まず 護の師であり大学の先輩の大河実。

過去に このクラスを5度も制している。

今年で40歳…まさにボディービルダーとして一番脂の乗りきった時期だ。
間違い無く、彼が優勝候補筆頭だろう。
次に、田中忠と猪狩一弘…
去年の日本選手権、8位と12位の選手である。
そして去年のジャパンオープン2位 ベテランの新屋誠…
おそらく この4人は入賞確実であろう。


残った2つの椅子を、8人で争う事となる。
どの顔触れも一度は雑誌等で顔を見た事のある猛者ばかりだ…


そして ゼッケン5番 吉岡修司…


奴にだけは、絶対に負けられない…負ける訳にはいかないのだ!



何度も何度も叩き潰して来た筈だ…

しかし奴はその度に 立上がり 俺に立ち向かって来る…

何度 向かって来ても 少しも怖くなかった…

俺が奴に負ける要素がある訳なかった…

しかし、去年…

俺は初めて 奴に恐怖を覚えた…

それ程、奴の仕上がりが凄かったのだ…

しかし 勝ったのは俺の方だった…

奴は 3位だった…


世間に『宮本が勝ったのは今迄の貯金のお陰だ』と言う声がある事は知っている…

過去の貯金?

笑わせるな!その貯金を作ったのも 俺の実績だ…

そういう実績、身体 全ての要素を見て 審査員は俺を選んだのだ…

別に 俺が審査員を買収した訳でも 脅した訳でもない…

だから 俺は胸をはって表彰台の一番高い位置に立ったのだ…

去年、県大会優勝が決まった時、正直俺はホッとした…


もう、執拗な奴の後追いを受けなくて良くなる。


これからは、奴の手の届かないレベルの大会に行けるのだ…

だが、今年 奴は性懲りもなく『日本クラス別』にエントリーして来た…


よりによって、わざわざ同じ70キロ級で…

もう、うんざりだ…



俺が 有り余る程の才能に溢れているって…?


冗談じゃない…


170cm 46kg それがボディービルを始めた時の俺の数字だ。

この体格で、何の運動経験のない俺が、大学のボディービル部で生き残る為に どれ程 血の滲む思いをして来たか…

俺が今の地位に立つ為にどれだけの事を犠牲にして来たか…

美奈子も失いそうな今、俺にはもうこれしかないのだ…

だから俺は 絶対に この世界でのし上がってやる…

もう俺にはそれしか残ってない…

このスポーツを始めて、初めて本気でそう思った…

だが今日 目の前で見せつけられた 奴の身体…

敵ながら 戦慄が疾る程の凄まじさだった…

それは認めなければならない…

果たして 俺はあと2週間で、あれ以上の身体を作る事が出来るのだろうか…?


すれ違う車の跳ねた雨水が 護の端正な顔を叩く。

しかし それに気づかぬ程に 護は考え込んでいた。



彼も また荒野の中にいたのだ…