boomerさんのボディビル小説
ライバル達の唄

第二章
遂に出来上がって来た!
美奈子は、両手にしっかりと、分厚い本を抱え込んでいた。
『K県の歴史と文化を尋ねて』
それが、この本のタイトルである。
美奈子の勤める『T出版』は、主にK県のタウン情報誌等を発行する、いわゆるローカル出版社だ。
そのT出版が、創立20周年を記念して、地元に密着した歴史や文化を訪ね歩く別冊本を発行する事になった。
その担当者に指名されたのが、なんと入社3年目の美奈子だった。
これは、まさに大抜擢だった。
この話が来た時 美奈子は二つ返事で、OKをした。
去年の12月の事だ。
それ以来 美奈子の毎日は多忙を極めた。
日曜も祝日も無く、取材の毎日…
毎晩、遅くまで構成、執筆に追われた。
しかし美奈子は、この仕事の事を 敢えて夫の護には言わなかった。
完成した本を、(心血を注いだ自分の仕事を)護に見せて 驚かせる…
それが、護を取り戻す一番の方法だと考えたから…
去年の夏以来、護の心は、何処かに行ってしまった…
完全に護は変わってしまったのだ…
『私は今でも、こんなに愛しているのに…』
8月…
護は、念願のミスターK県のタイトルを手に入れた。
美奈子は、この大会を観戦していない。
昔から 護は、自分の試合に美奈子が来る事を極端に嫌がったからだ。
その夜、護は帰宅するなり トロフィーを床に放り投げ、そのまま部屋に閉じこもってしまった。
美奈子は、そのトロフィーを見て 初めて護の優勝を知った。
念願の県タイトルを獲ったというのに、何故…?
理由は 後日このコンテストを観戦した、ボディービル部の後輩 松本から聞いた。
館内では、優勝した護よりも、3位の選手の方を指示する声の方が多かったらしい。
問題は、その選手の名前である…
美奈子もよく知る、あの男の名前…
無愛想でゴツゴツした顔が頭に浮んで来る…
プライドの高い 護が、どれ程 傷ついた事か…
その日から 護は変わった…
どんなに大会が近くても 必ず日曜日には家にいて、家族サービスに努めていた護が、家を空ける事が多くなった…
来る日も来る日もジム通い…
少しの事で妙に怒りっぽくなり、次第にお互いの会話が少なくなって行った…
だんだんと護が見えなくなる…
だからこそ…
美奈子は 完成した本を抱え帰宅した。
部屋に誰もいない事は承知していた…
護は、今頃北九州市内のホテルにいる筈だ…
明日の『日本クラス別』に出場する為に…
美奈子は、この事を連盟のホームページで知った。
明日の夜、護が帰って来たら、この本を手渡そう…
心尽くしの手料理と一緒に…
ふと、美奈子の目がテーブルの上の封筒を捕らえる…
『何…?』
中身を開けて 美奈子は愕然とした…
『離婚届け』…
しっかりと護の分の署名がしてある…
『嫌…絶対に嫌…』
美奈子の震える指が、護の携帯番号を押す…
…お掛けになった電話は電波の届かない範囲にあるか、電源が入って…
『お願い出て!』
何度も何度も掛け直す…
しかし電話は虚しく同じガイダンスを繰り返すばかりだ…
『行かなきゃ…』
何処へ…?
北九州市の何処…?
美奈子の指が違う携帯番号を押す。
よし!全てが順調だ!
大河実は、常に自然体だった。
今朝 起き抜けの体重が71.5kg…
リミットまで1.5キロのオーバーだ。
大河の君臨する70キロ級のリミットは、65.1kgから70kgまでの間
今日は朝から、アミノ酸のパウダーのみで、固形物の食事を摂っていない。
検量 1時間前にサウナに入る。
これで、ドンピシャ70キロ!大河は長年の経験で、それを知っていた。
実際 検量は69.8kgだった…
70kgを切るのは、検量の一瞬だけで良い。
これから 明日の朝までは、とにかく食べまくる。
ステーキ、ピザ、チョコレート、パスタ…これ以上は食べれなくなるまで、何でも詰め込む。
おそらく当日は74kg位の、筋肉がパンパンに張った状態でステージに立てる筈だ。
まさに世に言う『大河マジック』だ。
大河にとって『日本クラス別』のタイトルなんて どうでも良かった。
目標は あくまで その先…
Mr.アジアのタイトルだ。
3年続けて、不可解なジャッジで シンガポールの選手の前に破れ2位に甘んじている。
今年こそ念願のアジアの、そして世界のタイトルを…
その為にも 明日破れる事など、これっぽっちも考えていない…
っと 不意に携帯が鳴った…
姪の美奈子からだ…
吉岡修司は、とまどっていた。
『日本クラス別選手権』
その前日検量に、とうとう宮本護は 現れなかった…
『日本クラス別』では基本的に、前日検量と 当日検量が認められている。
しかし当日検量は、時間も短く、ウエイトオーバーの場合サウナに入る時間もないので即失格になる。
おまけに、カーボアップも出来ない為、リスキーだ。
だから、ほとんどの選手が前日検量を受ける。
検量をリミットギリギリでパスし、夜のうちに出来る限りカーボアップし、筋肉を少しでも膨らませる。
最近では、どの選手も、当たり前の様にとる作戦だ。
特に、170cmと70キロ級としては長身の護が 前日にカーボアップ出来ない事は致命的だ。
しかし 前日検量に護は現れなかった…
アクシデントか…?
あるいは作戦か…?
まさか…不出場なんて事は…
否、そんな事は絶対にありえない…
俺はアイツとの決着をつける為に、今日までやって来た…
アイツもきっと同じ気持ちの筈だ…
宮本武蔵を気取ってりいるつもりか…?
焦っては駄目だ…それこそ 佐々木小次郎になってしまう…
奴は来る…必ず来る…
俺は最後の最後まで自分の調整を 続けるだけだ…
牧洋司は、夜行バスに揺られていた。
飲み干した ビール缶を 握りつぶす。
もう既に 3本目だ。
元々アルコールは、そんなに強い方ではない。
しかし、慣れない旅の高揚、明日の試合への期待感が、遂アルコールの本数を増やしてしまう。
所属選手の県大会優勝…
それだけでもジムにとって充分な宣伝効果となった。
更に明日の『日本クラス別』で入賞でもしよう物ならば、次期 K県ボディービル連盟理事長の座も夢ではない。
元々 奴は好きな人間ではない…
否 どちらかと言えば 今でも嫌いだ…
とにかく生意気だ…俺のアドバイスに少しも耳を貸そうともしない…
学生時代の実績が どれ程の物か知らないが、いつも人を小馬鹿にした様な顔をしてやがる…
社会人デビューをした当初、なかなか思う様な成績を残せなかった…
それ見ろ!俺の言う事を聞かないからだ…
人前だろうが、何だろうが随分と叱責した…
その度に 奴は人を小馬鹿にした様な顔で睨みやがる…
大学を出てるからって、高卒の俺を馬鹿にしやがって!
胸ぐらを掴んだ事もあった…
あんな 胸クソの悪い奴でも県大会のタイトルを獲ってくれた事は、ありがたかった…
『奴に辛く当たったのは、奴が褒めて伸びる人間じゃなくて、
けなした方が伸びる人間だからなんだよ。』
取り巻き連中には、そう言った…
『ほれ見ろ、だから今年 タイトルを獲れただろう。』と…
明日 わざわざ九州まで応援に行くのだ…
それだけでも、充分 会員思いのジムオーナーを演じる事が出来る…
この際、とことんまで、奴を利用してやる…
決戦前夜…
それぞれの思惑を乗せ さまざまな人物が 九州福岡に集まりつつあった…
200X年7月22日…
梅雨明けしたばかりの空は雲一つない快晴だ。
朝からギラギラとした日差しが容赦なく降り注ぐ。
『北九州市立八幡西区文化会館』…
朝早くから、既に異様な一団が、建物の周りに集まっている。
真夏だというのに彼等の服装は、誰もが長袖、長ズボンだ。
中には、故意に風通しの悪いナイロン製のウィンドブレーカーを着用している者もいる。
彼等の顔付きは、誰もが、一様に頬が こけ、どの顔も真っ黒に日焼けし、その目つきだけが、異様にギラギラとしている。
開場を待つ間、約1年ぶりに会った戦友と談笑する者…
薩摩芋等の食物を頬張る者…
ヘッドホンから流れる音楽に精神を集中させる者…
皆、それぞれ 人さまざまだ…
午前9時 開場…
選手は、午後からの決勝フリーポーズ用の音楽テープを提出し 受付を済ませる。
この日 同時開催される『福岡選手権大会』と併せて、選手総勢150名を越すマンモス大会となった。
吉岡修司は しきりに、辺りを見渡していた。
(まだ来ていないのか…?)
『よう!』
不意に誰かに肩を叩かれた…
声の主は、大学の先輩、修司の出場する70キロ級絶対王者 大河実だった。
『あ、、ドーモ!ご無沙汰してます…』
すかさず頭を下げる。
『どうだい調子は?』
『悪くは無いんですが、何しろ今回は、大河さんを初め相手が強力な人達ばかりで…』
『ほう、お前も そんな気の利いた社交辞令が言える様になったか。』
修司は、どちらかと言うと 学生時代からライバルの宮本護の方にばかり目を掛けていたこの大河が苦手だった。
昔から あまり会話を交わした事もない。
おまけに美奈子の遠い親類…
全く未練が無いとはいえ、やはり昔の事を思いだすと、バツが悪い…
修司は意を決して、大河に尋ねた。
『ところで、宮本見ました?』
『あ…あ〜、夕べホテルには 居たんだがな…』答える大河の歯切れは悪い…
大河は 夕べの 美奈子からの電話を思い出していた…
連盟指定のNホテル…
とにかく、只事では無い様子だった…
『良いから、落ち着いて もう一度最初から説明してみろ。』
大河の言葉に 少しは美奈子も落ち着きを取り戻したらしい。
話の全貌は、だいたい理解出来た。
『とにかく、今夜これから こちらに来ても、どうにもならないだろう。明日の朝一でこちらに来て、出来れば試合が終わるまで
そっとしておいてやれ。俺の方から それとなく話をしておくから。』
最後は、美奈子も納得してくれた。
元々 頭の良い女性だ。
大河の方も 今日最後まで検量に現れなかった、美奈子の夫 『宮本護』の事が気掛かりだった。
(812号室)…護の泊まる部屋を2度ノックした…
『はい…』
暫く して扉が開く。
顔を出した 護を見て、大河は思わず息を呑んだ。
長年 コンテストビルダーを続けて来た大河は、数多くの 減量でやつれた選手を見て来た。
しかし、護のそれは、今迄見て来た 誰よりも 壮絶に見えた。
実際は、そうでもないのかもしれないが、いつも見慣れた 護の風貌が端正で、
何処か爽やかな印象を受けていただけに、そのギャップが大きい…
無精髭を蓄え、頬が 著しく 削げ落ちて見える…
しかし、その程度の選手は、時々見掛ける事もある。
だが、目付きが異常なのだ…
眼球が窪み、まるでウルトラマンの様に浮き上がって見える。
さらに その双傍には暗い影が 宿り、妙にギラギラして、鋭く光っている。
いつも護を見慣れている大河でさえ、あまりの変貌ぶりに、部屋番号を確認し直した程だ。
『あ、大河さん どうも…』
礼儀正しく 頭を下げるその姿は、護そのものなのだが…
『今日 見掛けなかったから、心配したぞ。あと何キロだ?』
『ん〜あと300gなんですけど、なかなか落ちなくて…参りました…階級別がこんなに難しいとは…』
『そうか…今まで、ずっとオーバーオールの大会ばかりだったからな。』
通常ボディービルの大会は、無差別級と階級別に分かれている。
無差別級で代表的な大会が『日本ボディービル選手権』で、階級別では『日本クラス別ボディービル選手権』となる。
護がこれまで出場して来た 学生選手権や県大会は、全て無差別級だった。
無差別級に比べて、階級別の難しい所は、まず自分の仕上がり体重を、完全に把握しておかなければならないという点だ。
前回の仕上がり体重に、オフの間の成長分を加味して、自分の出場階級を決めなければならない。
自分自身の筋量増加を過大評価し、階級を上げ登録しても 現実には、それ程でもなく、随分と
甘い仕上がりで出場せざるをえなくなるケースが多い。
また逆に前回の仕上がり体重を参考にエントリーしても、思いの他筋肉量が増えていて 仕上がりきっても まだリミットを
オーバーしているというケースもある。
慣れない者には、この見極めが非常に難しいのだ…
護の場合は、完全に後者だった…
去年、県大会を制した時の体重が69kg…
成長分を加味して75キロ級(70.1kg〜75kg)にエントリーするか、
仕上がり重視で70キロ級(65.1kg〜70kg)にするか 随分と迷った…
師である大河と相談した結果、初出場で全国的には まだ無名の護が、正当な評価を受けるには、完璧に
仕上げて出るべきだという結論に達し、最終的には70キロ級にエントリーする事にした。
しかし 護の筋肉量は、この1年間で想像以上に 増えていたのだ…
この事は大きな誤算だった…
原因は 吉岡修司の存在だった…
去年 修司の追い上げを食らう形となった護は、この1年とにかくガムシャラに取り組んで来た。
これまで 何処かで常に持っていた、変な余裕が、完全に無くなった。
結果、ナチュラルの範疇を超える程の 大幅なバルクアップを遂げる事となる。
極端に着痩せする護の この事実を大河は見落としてしまっていた。
また、護本人でさぇ、全く気付く事が出来なかった。
冷静に自分の身体を見つめる余裕もなく 一途に取り組んで来た為だ…
去年 県大会で優勝したレベルの仕上がり時で 73kg…
まだまだ3kgのオーバーだ。
もちろん、護はこのレベルには満足していない。
今年の修司の仕上がりから見ると、まだまだ全然甘い…
更に絞り込む…
食事、トレーニングと、これまでに経験した事のない様なハードメニューをこなす。
結果、1週間で2キロ程落ちた。
物凄いバスキュラリティー…全身にカットと血管が、くまなく浮び上がる凄まじい状態に仕上がった…
あの日の修司に勝るとも劣らない仕上がり…
同じ様な仕上がりならば、アウトライン、プロポーションで勝る護が負ける筈がない…
しかし 未だに1kgのオーバー…
大会まで、残り僅か1週間…
ここまで仕上がってからの1kgは想像以上にきつい…
3日間、鶏ササミ少々と水のみで過ごしす。
結果、体重は70.5kgまで落ちた…
リミットまで、もう少しだ…
しかしここで 体重の減りがピタリと止まってしまった。
その後の3日間は、アミノ酸パウダーのみの ほとんど飲まず食わずの生活だった…
しかし ほとんど体重は変わらぬまま、今日を迎えてしまった…
身体は 既に極限まで絞れ、極限まで疲れきっている…
だが、いくらジョギングをしようが、サウナに入ろうが もはや汗さえ出ない…
そんな調子で今日1日を過ごした…
もはや、立っていても座っていても、耳鳴りが鳴り続け、常に目眩が続いている状態だ…
『リミットは明日朝10時までで あと300g…大丈夫なのか?』
『何とか 間に合わせます。いざとなれば…』
『とにかく、無理をするな。大会は今年だけじゃない。』
そう言い残して、大河は部屋を出た。
結局、美奈子の事は 言い出せなかった…
大河を見送った後、護は鏡に向かっていた…
『これが…俺の顔…?』
鏡の中には、大きく頬が削げ落ち、唇はカサカサに干からび 青黒く やつれきった男の顔があった。
目付きだけが、妙にギラギラと光っている…
『いざとなれば…』
その顔に語り掛ける様に 護は呟いた…
『まだ 検量を済ませていない選手!70キロ級ゼッケン11番、宮本選手はいませんか?』
ロビーに係員の声が響き渡る。
護の名前を聞いただけで修司の胸は高鳴る…
(まだ来てないのか…一体…)
っと入口付近で声がした
『ここにいます!』
『!』
修司は 声のする方向を振り返った!!
そこには、頭からウィンドブレーカーのフードを、スッポリと被った 男が立っていた。
フードの中から覗く瞳は獣の様に爛々と光っている。
『来た!!間違いなく護だ!』
修司の胸が大きく弾む…
『宮本選手ですか? 至急検量を済ませて下さい。』
『分かりました…』
漆黒のフードをとった護を見て 修司は息を呑んだ…
なんと、彼の頭髪と眉毛は、綺麗に剃り落とされていた…
吉岡修司は、著しく動揺していた…
つい先程 自分の前に現れた 宮本護の風貌…
ボディービルダーの中には、スキンヘッドにする事により、少しでも頭部を小さく、
肩幅をより広く見せようとする者も沢山いる。
しかし 自分の知っている護は、そういうのとは 無縁な男だった筈だ。
常に自然体…
服を着ていると、一般人と変わらない…
否 むしろ 見ようによっては、何処か育ちの良い坊ちゃんに見える。
第一、そんな細工が不必要な程、誰もが羨む小さな頭部と、広い肩幅を持ち合わせている。
その護が ギリギリまで姿を見せなかった。
そして ようやく現れた その姿は、まさに鬼気迫るものだった…
護のやつれた顔つきから、相当に 厳しい減量だった事が伺い知れる。
修司自身も この2週間で さらに厳しく絞り込んで来たつもりだ。
しかし、護の あのやつれ方は そういうレベルを遥かに凌駕していた。
ボクサーの中には、ギリギリの減量の末 検量にパスする為に最後の最後には身体中の毛を全て剃ってしまう人もいると聞く…
更に凄まじい話だと、全ての歯を抜いてしまった人もいるらしい…
護の スキンヘッドは、そういう意味から来るものだろうか?
それにしても、あの目付き…
ギラギラとした中、何処か暗い影を落としている…
一体、奴に何があったのか…
そして 何より気になるのは、あのウィンドブレーカーの中身…
修司は とうとう最後まで 護の仕上がり具合を確認する事が出来なかった…
っと 隣りの検量ルームから 係員の声が聞こえて来た…
『11番 宮本護選手、70kgジャスト! OKでーす!』
これで 遂に待ちに待った 対決が実現する…
この日を どれだけ待ち望んだ事だろう…
しかし…
思った程、修司の胸は 高鳴らない…
むしろ、何処かで 護の検量失格を 望んでいる自分がいた事に気付いた。
何故?
一体 どうしちまったんだ?…
あんなに 望んでた対決じゃないか…
ビビってる?この俺が…
奴の あの変貌ぶりに…
奴の あの目付きに…
奴の あのスキンヘッドに…
それとも この独特の全国大会の雰囲気に…
否、俺が一番 恐れているのは、そんな事じゃない…
負けて これ以上傷つく事が怖いのだ…
今回、これ以上ない程に 仕上げる事が出来た。
何が あっても揺るがない程の自信を持っていた…
さっきまでは…
しかし 今は怖い…
正直 怖い…
もし、この 仕上がりで負けたら…
俺は もう二度と奴の前に立てないだろう…
否、ボディービルの舞台に立てない…
奴のコンディションが気になって仕方がない…
ギリギリの検量パス…少なくとも、筋肉を膨らませる時間は、ほとんど無い筈だ…
それでも、奴が怖い…
奴の全てが 怖くて仕方がない…
俺は 一体 何をビビっているんだ!
よく考えてみろ…
この日をどれだけ 待った…
ようやく実現した闘いじゃないか!
しかも ここは全国の舞台…
決着をつけるには、これ以上ない最高の舞台ではないか…
もう 同時開催である福岡選手権の予選審査が始まっている筈だ…
そろそろ、パンプアップを始めなければ ならない…
集中しろ!
とにかく集中しろ!
そして思い出せ!
長い長い奴との因縁を…
『あの…君も入部希望者ですか?』(誰だ?この痩せっぽちの少年は…)
『一人じゃ不安だから、一緒に入部届 出しに行きませんか?』(護か…?)
『うわ!吉岡君 凄い身体してるね!僕なんか恥ずかしくて、人前で服脱げないよ…』
『和田と西村も 退部届出したらしいよ。これで1年は僕と君だけに なっちゃったね。』
『吉岡君…駄目だ…もう限界だよ…明日、僕も退部届提出するよ…』
『昨日さぁ、大河さんに肩のトレーニング習ったんだ!全然効き方が違う!凄いなぁ!』
『ギリギリ12位かぁ。。でも俺が運動で表彰されるなんて、初めてだよ。だけど修司には、全然敵わないよなぁ…』
『今度 勝てたのは、たまたまだよ。修司も仕上げ途中だったし…でも 1ヶ月後も、そう簡単には負けないぞ。』
『ごめん…大河さんに紹介されたジムに通うんだ。もう一緒に練習出来ない…』
『吉岡先輩でも、笑う事があるんですね。』(美奈子…?)
『明日いよいよ大学最後の試合…頑張って下さいね。』
『ごめんなさい。私 随分前から、宮本先輩と付き合っているんです…』
『お願い…もう、ボディービルなんか辞めて、ちゃんと就職して…』(お袋…?)
『君の我が儘で、勝手に内定を取り消されると来年以降、大学の方にM商事から募集が来なくなり、後輩達が とても
迷惑するんだよ!』(クソ!)
『いい加減にしろ!いつまでも、あんなくだらない事を続けて!お前みたいな奴は勘当だ!出て行け!』(クソ!)
『あの仕上がりで、勝たせて貰えないなら、もう二度と吉岡は、宮本に勝てないだろうな。』(クソ!)
『学生4位だか何だか知らないが、いつまでも 俺の言う事を聞かないから、あいつは伸び悩んでいるんだよ!』
『おい!俺が許可しないとお前は、どんな試合にも出る事が出来ない事を忘れるなよ!』
『いつまでも宮本の背中を追いかけても、あいつは とっくにお前の手の届かない所に行ってるんだよ!』
『よーくやった!俺の目に狂いはなかった!俺がお前に辛く当たったのは、お前が褒めて伸びる人間じゃないと思ったからだ!
本当によくやった!』(クソ!クソ!…)
(クソ!、クソ!、クソ!、クソ!、クソ!、クソ!、クソ!、クソ!、クソ!、クソ!、クソ!、クソ!…)
誰が護に勝てないって!?
誰が護に追いつけないって!?
冗談じゃない!
てめーらの、その腐りきった先入観を、今日 ここで覆してやる!
修司の身体に 見る見る力が漲って来る…
゛まだか…?゛
゛俺の出番は、まだなのか?゛
゛何でも良い…俺を早く ステージに立たせてくれ゛
もう じっとしていられない…
じっと座っているだけで、身体中の震えが止まらない…
宮本護…
よくぞ来てくれた…
よくぞ 俺の前に現れてくれた…
お前に出会えて、本当に良かった…
お前の その目付きを見るだけで、俺の身体が筋肉が、俺の宇宙が悦びに満ちてくる…
さぁ、心行くまで 闘おうじゃないか…
『凄いなぁ〜』
八木道夫は、興奮しきっていた。
この雰囲気に、このレベルの高さ…
既に『日本クラス別60キロ級』の予選審査が始まっている。
彼にとって、全日本レベルの大会を 観戦するのは、今回が初めてであった。
今年の春 N大学を卒業した…
学生時代から アルバイトをしていたK出版に そのまま就職…
ホヤホヤの社会人一年生だ…
彼が 配属されたのは『月刊マッスルマガジン』編集部だった。
別に道夫に、ボディービルの経験があった訳ではない。
学生時代行ってた 剣道の補強で、少しバーベルを握った程度だ。
この3月に 『マッスルマガジン』の編集部に欠員が出た。
元々、3人しかいない編集部である。
そのうちの一人が欠ける事は 大きな痛手である。
早急に 人員確保をしなければ ならない。
そこで白羽の矢が立ったのが、新入社員の中で一番体力がありそうな道夫だった。
『はぁ〜…』
川島梓は、思わず 溜め息をついた。
今年で 入社10年目。
押しも押されぬ『マッスルマガジン』のエース記者である。
と、言っても 編集部には、あと編集長の荒川しかいないのだが…
梓は、新入社員である道夫の教育係も兼任させられていた。
それでなくても 人手不足で大変なのに、新入社員の子守役は、梓にとって大きな負担であった。
(この闘いを見て 凄いなぁ〜って リアクションのみ?本当にこの子 大丈夫な訳?)
何しろ 道夫はズブの素人である。
先日、日本選手権12連覇中 小内英雄を紹介した時も『誰ですか?』という反応のみだった。
さすがに、この時は肝を冷やした。
梓も 入社したての頃は、全くの素人だった。
しかし 彼女は彼女なりに 『マッスルマガジン』のバックナンバーを揃えて、一生懸命 ルールを覚え、選手の顔を覚えた。
だが この若者には そういった情熱が全く伺い知れない…
『今日のクラス別は、どの階級も接戦ばかりで 面白いわよ。』
カメラのシャッターを押しながら 梓は呟いた。
『へぇ〜、そんなに、どの階級も競っているんですか。』
『そうねぇ、ハッキリと優勝が予想出来るのは、70キロ級の大河さんと、85キロ級の小内さん位ね。』
『あぁ、小内さんは分かりますけど、大河さんって、そんなに凄いんですか?』
『ったく!ボディービルの記者やってるんだから 大河さん位 勉強しときなさいよ!』
『あ…すみません。』
『いい!今 小内さんがミスター日本を12連覇してるけど、小内さんの連勝記録を止められるのは、大河さんしか いないって
言われているの!』
『はぁ…』
『国内では 小内さんの方が評価が上だけど、アジアに行くと、ミドル級での小内さんよりも、ライト級での大河さんの方が
よりアジア王者に近いと言われているの。』
『つまり無差別級ならば小内さんだけど、階級別ならば大河さんって所ね。』
『なる程…』
『でも 今年の70キロ級、優勝は大河さんで仕方ないにしても、なかなか面白いメンバーよ。』
『2位以下が、激戦って事ですか?』
『そうねぇ、まず、ゼッケン1番、田中忠… 去年のこの階級の2位で、日本選手権でも、8位に入ってるわ。地味だけど相当の
実力者よ。』
『次が ゼッケン3番、猪狩一宏…まだ若干22歳だけど、去年 全くのノーマークだった東京選手権を制して、その勢いで
日本選手権でも12位に入賞してるわ。本人は3年後にはアジアを獲るって豪語している程の自信家よ。』
『あと、ゼッケン9番、新屋誠…40過ぎから頭角をあらわし、3年連続で全日本マスターズ40歳の部で優勝、去年の
ジャパンオープンでも2位に入ってるわ。』
『この3人に大河さんを含めた4人が予選通過確実ね。』
『じゃあ、このクラスは12名エントリーだけど、入賞者6人中4人はもう決定的って事ですか?』
『そういう事ね。残りの8人で、2つの椅子を争う形になるけど、他にも実力者は沢山いるし、決勝進出するだけでも至難の業ね。』
『じゃあ、初出場者が決勝に残るのは、ほとんど無理ですね。』
『そうね。初出場と言えば、一人 気になる選手がいるわ。』
『誰です?』
『大河さんの大学の後輩で ゼッケン11番、宮本護…元々、学生選手権に出ていたから、印象に残っていたけど
大河さんの話だと、あの頃とは比べ物にならないくらい 大きくなってるそうよ。昔から美しいプロポーションだった彼が
どう変わったか、楽しみね。』
既に60キロ級の 比較審査が終わろうとしていた。
゛吉田弘之゛は、完全に周りの雰囲気に圧倒されていた。
去年のN県選手権優勝者。
今年、初めて日本クラス別にエントリーした。
階級は70キロ級…12人の中の1人だ。
目の前で、絶対王者 ゛大河実゛がアップを始めていた。
ほとんどの選手が、出番ギリギリまで、長袖のトレーナーやウィンドブレーカーで、その肉体を隠しているのに対して
大河は『どうぞ!見てくれ!』と言わんばかりに、タンクトップ一枚という姿だ。
腕たて伏せに、チューブ、懸垂…ゆっくりと丁寧に身体を動かしていく…
見る見る 大河の身体が膨れ上がっていく。
まるで、ついさっきよりも一周り大きくなった様な錯覚を受ける…
丸々とした肩、丸太の様な上腕…
『本当に、これで70キロで収まっているのか…?』
吉田は、まるで魔法を見ている様だった。
まさに ゛大河マジック゛である。
吉田の目が、大河とコンビを組んでアップをしている選手を捕らえた。
スキンヘッドで著しく頬が こけている。
その様子からも 相当な厳しい減量だった事が伺いしれる。
上着から、その中身は伺えないが、吉田の競技者としての長年培ってきた勘が、彼はただ物ではないと告げていた。
非常に抽象的だが、並の選手とは、雰囲気が違う。
全身から放たれるオーラが違うのだ。
見た事のない顔である…
゛一体 何者だ゛
大河と一緒という事は、おそらくK県の選手だろう…
彼は間違いなく強敵だ…
すぐ隣りでは、いぶし銀の ゛田中忠゛が黙々と背中のアップを始めている。
顔を真っ赤にし、一回一回、まるで背中にエネルギーを注入するかの如くゆっくりと動かしている。
若い゛猪狩一宏゛は、気合いの掛け声とともに、かなりの高重量のダンベルを振り回している。
バルクなら誰にも負けない!その自信が全身に漲っている。
対照的に ベテラン゛新屋誠゛は まるで口笛でも吹かんばかりに、時おり軽く身体を動かしているだけだ。
彼程になると、自分の勝負所を熟知しているのだろう。
周りの選手を見ていると、゛自分がとんでもない場違いな所に来ているのではないか。゛という錯覚をしてしまう。
『駄目だ!この雰囲気に呑まれるな…』自分に強く言い聞かせる…
ふと、吉田の目が 入口付近の人物を捕らえた。
その男も敢えて肉体を隠そうとはしない…Tシャツ姿だった。
椅子に腰掛け、腕を前に組み、まるで瞑想でもしているかの様に瞳を閉じている…
さっきからずっと、何かを呟いている…
男の周りだけ あきらかに空気の重さが違う…
(クソ、クソ、クソ、クソ…)
しっかりとは聞き取れないが、確かに彼には 男がそう呟いている様に聞こえた…
気のせいか、男が呟くたびに Tシャツの袖から覗く腕が肩が、膨れ上がっていく様な気がする。
男の表情を見て、吉田はゾッとした!
男の口許が、ニヤリと強烈に笑っている…
まるで肉食動物の様な笑えみだ…
吉田は、自分が獲物にでもなったかの様な錯覚を起こした。
『な、何なんだ!この顔触れは…今日此処で、きっと何かが起こる…』
今まさに、日本ボディービル史に残る闘いが 始まろうとしていた…