boomerさんのボディビル小説
ライバル達の唄

第三章
゛よし!準備は整った!いつでもOKだ!゛
猪狩一宏は はやる気持ちを必死で鎮めた。
このクラス 最年少…若干22歳の日本選手権ファイナリストは、パンパンに膨れ上がった 自らの大胸筋
の張りを確かめつつ出番を待っていた。
ウェイトトレーニングを始めたのが高校2年の春。
当時 在籍していた野球部の補強運動としてだった。
そこで、すっかりのめり込んでしまった。
本業の野球そっちのけで、来る日も来る日もベンチプレスの最高重量を追い求めた。
高校を卒業する頃には、140キロを挙げれる程になっていた。
二十歳でコンテストデビューを果たし、その年の『東京オープン』、『東京クラス別』と
たて続けに制した。
1年オフを取った去年、全くノーマークだった東京選手権を制し、その勢いで参加者38名という日本選
手権で見事12位入賞を果たした。
まさに、ボディービルダーとして、これ以上にない順風満帆さだった。
しかし彼は それに満足してはいなかった。
25歳となる3年後には、常勝王者 小内英雄を倒し日本選手権を、更にアジア王者をも獲ると、
常に公言していた。
人は彼をビックマウスと呼ぶ。
だが 彼は そう発言するだけの努力はしてきたつもりだし、実際 同年代の若者が謳歌している
あらゆる楽しみを犠牲にして来た。
今日の このクラス…誰もが 絶対王者 大河実の勝利を信じて疑わなかった。
しかし 彼は本気で ここを勝ち、アジア選手権代表の座を狙っている。
ましてや、゛4強゛と言われている 他の田中忠や新屋誠に負ける事など、考えてもいない。
やがて 係員が現れ70キロ級の選手集合を告げた。
『よっしゃ!!出番だ!』
ここで 初めて選手達は、服を脱ぎ去り ゼッケン順に整列をする。
猪狩は、さりげなく後を振り返った。
ゼッケン7番…大河実の仕上がりを確認する為に…
っと彼の目が、自分の後の後の選手…ゼッケン5番の選手の身体で止まった。
決して、恵まれているとは言えない骨格に、密度の高い筋肉をギュウギュウに詰め込んでいる。
更に特筆すべきは、その仕上がりだ。
いかにも質の高い筋肉を包み込む皮膚は、玉葱の皮ほどの薄さで皮下脂肪のかけらも無い。
゛誰だ こいつは!゛
初めて見る顔であった。
ゴツゴツした顔をしている。
無愛想な顔をしている。
決して 愛想笑いなど しそうにない顔をしている。
予選が始まった。
12名の選手が身長の低い者から順に若いゼッケン番号をつけ、横一列に並んでいる。
彼等は自然体で立っては、いるものの、頭の先から爪先まで、神経を張り巡らせ、少しでも 緊張を抜い
ている者など一人もいない。
初めて立った、全国大会の舞台は、想像した程、眩しくもなければ、大きくもなかった。
それでも、膝が ガクガクと震えている…
『緊張しているのか?この俺が…』
『否、これは武者震いだ。』
舞台なんて 何処でも良い…
今日、ようやく護と決着を付ける事が出来る…
何の先入観のない 全国の審査員の元で…
出来る事、やるべき事は 全てやって来た。
落ち着け!落ち着け!落ち着け!落ち着くんだ!
俺は 今ここに立っている…
全てを捨てて ここまで辿り着いた…
美奈子…
かけがえの無い物と引き替えに、俺はこの場所を選んだ…
俺は こいつでのし上がってやる…今日がその第一歩だ…
邪魔する奴は誰であろうと叩き潰す…
例え それが世話になっている大河実でもだ…
吉岡修司…
お前と相対するのも、今日 これが最後だ…
今日 ここでお前を完符なまでに叩き潰し、俺はお前なんかの手の届かない場所まで登り詰めてみせる…
『ターンライト!』
シーンと静まり返った館内で司会者のマイクが響く…
その声に合わせて、12人が一斉に右横を向く…
『ターンライト!』
更に 右回りに後を向く…
『ターンライト!』
左横を…
『ターンライト!』
正面…
こうやって選手は 時計回りで万遍なく 全身を審査員に見てもらう。
引き続き1番から6番、7番から12番が左右入れ替わって、同じ様な儀式を繰り返す。
いわゆる リラックスポーズの比較審査だ…
次に規定ポーズの比較…
1番から6番までの選手が 7つある規定ポーズを順にとる…
7つの規定ポーズには、それぞれに意味があり 共通して言える事は、どのポーズに於いても
審査員は全身を見ているという事だ。
例えば 腹筋を強調するポーズであっても 審査員は腹筋だけではなく、背中の広がりから、
脚のカットまで、全てに目を光らせている。
全身のあらゆる箇所に、力と神経を込めたポーズを 7つもとる。
一つのポーズ時間がおよそ10秒だ。
7つ全てのポーズをとり終える頃には、息は途絶え 心臓は煽る程の、莫大なエネルギーを消耗する。
前半6人の規定ポーズが終わると、次は7番から12番までが、同じ様に一通りの規定ポーズをとる。
『これは 面白い!!』
森本洋一は、審査員の立場を忘れて興奮していた。
森本自身も 過去にこの日本クラス別を2度制している。
8年前に 現役を引退…その後、審査員となり いくつものコンテストを裁いて来た。
その彼が審査員の立場を忘れて興奮しているのだ…
彼が最初に目をやったのは、やはりゼッケン7番 大河実だった。
目標を10月の 日本選手権、更には、アジア大会に置く 大河がこの時期に100%の仕上がりで出て来
る事は、まずない。
しかし今年は例年にも増して かなり進んだ仕上がりで出て来た様だ。
こうなると、やはり存在感が違う。
何よりも 全身から風格が滲み出ている。
大河は文句なくOKだ。
次に 去年2位のゼッケン1番、田中忠…
このクラスでは一番小柄な選手だ。
その仕上がりは、例年に比べて良くもなければ、悪くもない。
良く言えば 安定した仕上がり…
口の悪い連中に言わせると、変わりばえの無い身体という事になる。
しかし 誰もが納得する事は 非常に高いレベルでの変わりばえの無い身体という事だ。
逆に ゼッケン3番、猪狩一宏は随分とデカくなっている。
去年、東京を制した時に比べても一周り程デカい。
おそらくバルクのみならば、部所によっては、既に大河を凌いでいる。
あとは この常人離れした筋肉に、いかに密度をつけていくかだ。
もし、それが可能ならば、彼が公言している5年後の日本選手権優勝も夢ではない。
そしてゼッケン9番、新屋誠…
驚いた事に、この年齢で まだまだ進化している。
全身にストリエーションが走り、バックポーズの迫力は 大河をも凌いでいる。
これが数年前まで 背中が弱点だと言われ続けて来た選手のバックポーズだろうか…
しかも 彼は既に48歳である。
確かに4強は、皆凄い出来だ。
しかし 森本が興奮しているのは、この4人の存在に対してではなかった…
『ふぅ…』八木道夫は 思わず溜め息をついた。
まだまだボディービル記者になりたて…素人に毛が生えた程の知識しか持たない彼も、この階級の
他とは比べ物にならない程の緊張感に胸が高鳴った。
隣では先輩記者の中島梓が、シャッターを押すのも忘れて 見入っている。
『驚いたわ… こんな事って…』
全選手 一通りの規定ポーズをとり終え、再び 横一列に並んで立っている。
どの選手の呼吸も荒く、激しく胸が上下している。
司会者が 審査員からメモを受けとり、今まさに それを読み上げようとしている…
いよいよ注目のファーストコールである…
『やはり凄い奴だ…』
細いウェストから、まるで翼の様に広がる背中、広い肩幅、袴の様な脚、そして小さな頭部…
美しいアウトラインは、一周り巨大化し、よりメリハリが増している…
そして何より その仕上がりだ。
全身にストリエーションの嵐が疾しり、最も脂肪が落ちにくいと言われている臀部にまで、まるで彫刻刀
で彫った様な見事なカットを刻んでいる。
まさに薄皮一枚の仕上がりで、少しでも身体を動かそうものならば、その皮膚は、カサカサと音をたてそ
うな質感である。
その上、ギリギリまで、厳しい減量をしていたにも拘らず、彼特有の丸みを帯びた筋肉は、少しも張りを
損なわれていない。
吉岡修司には、ずっと宮本護しか見えていなかった。
彼にとっては、絶対王者 大河実も他の4強のメンバーも
、゛誰がファーストコールに抽出されるのか?゛さえも興味がなかった。
とにかく、ここは 自分対宮本護の舞台でしかないのだ。
客席は 水をうった様な静けさで、その時を待っていた。
司会者が 今まさにファーストコールを告げようとしている。
……………………………
『7番!』… 大河実…
『9番!』… 新屋誠…
『1番!』… 田中忠…
『3番!』… 猪狩一宏…
ファーストコールは、いわゆる4強と言われている4人だった…
場内のボルテージが一転してヒートアップする!
『たなかぁ〜!』『おーかわぁ!』『しんやぁ〜!』『いがりぃ!』
それぞれのファンが贔屓の選手の名を叫ぶ!
『まぁ、順当な抽出ね。』
ファインダーを覗き込みながら 中島梓は呟いた。
『そうでしょうか…?』
『僕には、もっとファーストコールに相応しい選手がいる様な気がするのですが…』
新人記者がベテランに意見する事自体 この世界では珍しい事であった。
それでも 八木道夫は言わずには おれなかった。
カメラから目を離した梓は キッと道夫を睨み付けた。
『まだまだ素人の君に 何が分かるの!いい!これがボディービルの秩序なのよ!』
『それは おかしいと思います。ボディービルがスポーツである以上、純粋に身体で評価しないと…』
『君と こんな所で審査論を ぶつけ合っても仕方ないわ。でも よく覚えといて!私達の仕事は あくまで
結果をそのまま伝える事であって、余計な主観は邪魔なだけよ!』
『それにしても…』
道夫は 自分の様な素人が見ても、本来 ここで呼ばれてもおかしくない2人の選手に目をやった…
究極の仕上がりで出て来た二人…だが、どちらの選手も無表情で、
ここからは、その胸中までは伺い知れない…
番号を呼ばれた4人が 前に出て、再び規定ポーズの比較が始まる。
゛さぁ、ここが正念場だ!゛
この比較で1位から4位までが ほぼ確定すると言っても過言ではないのだ。
大河実は、常にマイペースだった。
ほぼ 完璧に発達している彼の身体にも 唯一の泣き所がある。
背中の厚みが 他の部所に比べて若干劣っているのだ。
国内の大会に於いて、それ程 気にならない この弱点も、国際大会となると、もろに響いてきた。
何しろ 外国の選手は、誰もが まるで甲羅を背負った様な分厚い背中をしている。
彼はその度に、何度も何度もこの壁に打ちのめされて来た。
大河は この弱点を、ポーズのとり方によって克服した。
立ち方、身体の捻り方、そして間の取り方を研究する事により、
審査員に対する見せ方に工夫を凝らしたのだ。
その結果 まさに審査員の目に錯覚を起こす新たなる 大河マジックが完成した。
もはや 彼の背中の厚みを指摘する人間は一人としていない。
腕や肩のバルクのみならば、あるいは猪狩の方が上かもしれない…
背中のカット、デフィニションでは新屋の方に軍配があるだろう…
大脚四頭筋の鮮明さならば 田中の方が上回っている…
しかし、総合力で大河に敵う選手はこのクラスにはいない。
トータルパッケージならば やはり断トツで大河なのだ。
森本洋一は、審査員席から、この比較を何処か物足りなげに眺めていた。
残念ながら、この4人のメンバーでは、先程まで感じていた、ワクワク感が湧いて来ない。
何なんだ…この違和感は…
あるいは、俺の感覚がおかしいのか…
ファーストコールの比較審査が済んだ。
司会者が次のコールをする…
『1番の選手だけ 下がって 5番の選手、出て来て下さい!』
最初の4人から 田中忠のみ下げられ、修司が呼ばれた。
『よし!!』思わず修司は拳を握りしめた!
この比較の意味…
最初の4人から下げられた 田中は優勝争いから一歩後退した事になる。
逆に ここで呼ばれた修司は、上位と絡んでいる事になる。
この時点で、まだ呼ばれていない 護に対して1歩リードしたと言う所だ…
見たか、護…
3番 猪狩、5番 修司、7番 大河、9番 新屋の比較が始まった…
ガヤ、ガヤ、ガヤ、ガヤ…
急に客席が ざわめき出した…
゛誰だ?あの5番は…゛
゛あんな 凄い奴が今迄何処に埋もれていたんだ…゛
さぁ、皆 よく見ろ!俺の身体を!
大河と比べて、どうだ!?
猪狩と比べて、どうだ!?
新屋と比べて、どうだ!?
誰にも劣っちゃいないだろう?
誰にも負けちゃ いないだろう?
それより 護だ!
おい 審査員、何を見てるんだ?早く俺と護を闘わせろ!
4人の比較が終わった…
客席は、まだざわついている…
彼等も、ようやく今回は、このまま順当には終わらないのではないか?という予感を持ち始めていた。
司会者が 次なる比較を読み上げる。
『1番、5番、11番』
修司の胸が高鳴る!
いよいよ 待ちに待った 護との対決が実現する!
ここまで 待たされて 宮本護はフラストレーションが溜りまくっていた。
ファーストコール、は仕方ないにしても、セカンドコールを外した事は計算外だった。
ましてや、修司にまで遅れを とってしまうとは…
しかし、護は少しも諦めていなかった。
一度でも呼ばれたならば この遅れを取り戻す自信は 充分にあった。
゛さぁ、いよいよ出番だ!暴れまくってやる!皆、俺をよく見ておけよ!゛
夫の姿をステージ上で見るのは これが初めてであった。
まずは その変貌ぶりに驚いた…
髪も眉も、きれいに剃り落とされている…
人相が変わりきってしまう程のやつれ方…
それだけでも、この大会に、否ボディービルに掛ける夫の執念が充分に伝わってくる…
涙が溢れてくる…
もう、まともに前を見る事が出来ない…
美奈子は、ただ うつむくしか出来なかった…
ただ祈る事しか出来なかった…
左から 田中、修司、護が並んで立っている…
田中と修司の間隔は、随分と離れている様に見える。
その分 修司と護の間隔は かなり狭い。
意識しての事かどうかは、分からないが二人の間に、相当に強いエネルギーが充満している…
物凄い緊張感だ…
゛ダブルバイセップス゛
゛ラットスプレット゛
゛サイドチェスト゛
゛バックダブルバイセップス゛
゛バックラットスプレット゛
゛サイドトライセップス゛
そして…゛アブドミナルアンドサイ゛
物凄い大歓声であった…
物凄い闘いであった…
片や 骨格いっぱいに密度の高い筋肉をギュウギュウに詰め込んでいる…
片や 恵まれたプロポーションに 丸々とした筋肉を、これまた目一杯に詰め込んでいる。
どちらの選手も 究極の仕上がりだ…
これ以上ない仕上がりだ…
そして何よりも 両選手の気迫が凄まじい。
まるで゛筋肉゛という拳を武器に 本気で殴り合っている様な錯覚を受ける…
これに呼応して 田中忠も日本選手権ファイナリストの意地とプライドで両者にくらいつく…
八木道夫は 涙が溢れそうになるのを必死に堪えた…
決して、なりたくて なったボディービル雑誌記者では ない。
しかし、自分の中で 確実に何かが変わっていく事を感じずには、いられなかった…
『俺は 決して結果をそのまま伝えるだけの味気無い記事しか書けない記者にはならない…』
その後いくつかの比較が繰り返され、やがて全ての比較審査が終わった…
再び選手控え室…
係員が 選手全員に集合をかけた…
『それでは 70キロ級 決勝進出者 6名を発表します。』
各選手に緊張が疾しる。
控え室全体が、重苦しい空気に包まれた…
係員が手元のメモを読み上げる…
『1番 田中選手』
『3番 猪狩選手』
『5番 吉岡選手』
よし!!残った!残ったぞ!
護は…?
護は どうなんだ?
残って来い!ここまで来たら決勝で闘うんだ!
最高の舞台で 俺達の決着をつけるんだ!
護よ 残って来い!絶対に残って来い!
『7番 大河選手』
『9番 新屋選手』
『え〜、あと1名ですね…』
午前中 あんなに賑わっていた控え室も、随分と閑散として来た。
参加人数が、膨大な為、70キロ級と75キロ級の2クラスで一つの控え室が与えられている…
70キロ級 12名…75キロ級 19名…うち 午後からの決勝に残ったのは、
各クラス6名ずつの僅か12名のみだ。
昼休み…
予選で破れた選手達は 荷物をまとめ 思い思いに帰って行く…
控え室に 午前中の様な、張り詰めた緊張感はない。
ボディービルの大会に於いての順位付は、午前中の比較審査で ほとんど決まってしまうと言っても
過言ではない。
午後からの決勝審査は どちらかと言えば ショー的要素が強い。
よって 午後からは、選手達も緊張感から開放され、一転 和気あいあいとした雰囲気になる。
吉田弘之もまた 荷物をまとめて立ち去る組だった…
去年のN県チャンピオン…初めての 日本クラス別 出場であった。
今日の為に 約4ヶ月掛けて準備をし、一度も比較に呼ばれる事なく破れ去った…
今日 実際にポーズをとった時間が1分足らず…
4ヶ月の苦労が、僅か1分で泡と消えた…
残酷だが、これもボディービルだ…
しかし 不思議と悔しさは無かった…
むしろ あまりのレベルの高さに 感動さえ覚えていた。
その中でも 自分と同じ初出場の あの2人の熱い闘い…
同じ 競技者でありながら、見ているだけで興奮する程の迫力だった…
どちらも 同じK県の選手…二人の間にただならぬ因縁を感じた。
現に 和気あいあいとした この雰囲気の中 二人の周りだけ 相変わらず空気が重苦しい。
『いやぁ〜!最初はヒヤヒヤしたけど、良かった、良かった!』
控え室全体に 牧洋司の甲高い声が響き渡る。
『関係者以外立ち入り禁止』
そう貼紙が施されているにも 拘らず ずうずうしい彼は、厚かましくも部屋に入るなり
修司の前にどかっと腰掛けた。
修司の所属するMCジムのオーナーである。
昔から 随分と修司に対して 冷たくあたってきた。
しかし 今年 修司が県大会を制するや、手の平を返した様に すり寄って来た。
『予選通過だけでも快挙や。県大会にも優勝したし 本当に今年は我がジムにとっても良い年や。
儂もお前と一緒に苦労して来た甲斐があったわ。まぁ、昼からは祭みたいな物や。
これ以上欲ばらんと気楽に頑張りぃ。』
誰だ この男は…?
酷く酒臭い…
さっきから 一体何をはしゃいでいるんだ…?
俺に話し掛けてるのか?
あっちに行け…
鬱陶しい…
あっちに行け…
虫酸が走る…
………………………
『あっちに行けって言ってるだろうが!!』
牧は 鳩が豆鉄砲を食らった様に きょとんとしている。
『あはは…吉岡くん、もう興奮してから…あかんで…勝負はまだまだ先や…そや、儂が秘策を…』
たちまち騒ぎを聞きつけ駆け付けた係員に注意を受ける。
『あの、ここは関係者以外は入れないんで。』
言い方は丁寧だが、強引にでも連れ出そうとする勢いだ。
『何 言ってる!儂は吉岡の師匠や!今 秘策を授けとるんや!』
『俺は そんな奴知らない!出て行ってもらってくれ!』
『こ、こら!吉岡!それが 育ててやった者に対する…
ち、ちょっと、こら!…痛い…離せ…離さんかい…』
牧は係員二人に両脇を抱えられ、半ば強引に連れ出されて行った。
美奈子は ずっと席から立てずにいた。
先程の大河からのメールで 護も大河も 、そして吉岡も予選を通過出来た事を知った。
午前中は 結局一度も顔を上げて 夫の闘っている姿を見れなかった。
ただ 周りの大歓声が 夫の激闘ぶりを伝えてくれた…
午後からも あの闘いは続くのか…?
夫は 自分の目指す場所に辿り着けるのか…?
そして 夫は自分の所に戻って来てくれるのだろうか?
森本洋一は、自分の付けたスコアー表をじっと眺めていた…
゛どうして 自分の思った通りに出来なかった…?゛
゛お前は ここでは神様なんじゃないのか…゛
゛自分の感じたままを 残せば良いじゃないか゛
゛審査員なんて、そういう物だろう…゛
゛それが出来ないならば、もう審査員なんか辞めちまえよ゛
決して褒められる呼ばれ方ではなかった…
しかし、一度呼ばれるや否や、立て続けに3度コールされた。
あれだけでも、充分に序盤の遅れを挽回出来た筈だ…
審査員も迷っている…
こういう時は、決勝フリーポーズでも充分に逆転可能だ…
宮本護は、最後の1分間に向けて ぐっと気持ちを昂ぶらせていた…
ボディービルの決勝審査は、自分の選曲した音楽と共に、1分間のフリー演技を行う。
そこで審査員は 選手の筋肉の発達具合、表現力等を考慮し順位を付ける。
この順位に 午前中の予選審査での順位を合計した点数が、最終的な順位となる。
いよいよ70キロ級の決勝が始まった…
後日、八木道夫は入社後 初めての大きな仕事を与えられる。
この日の『日本クラス別』観戦レポートである。
道夫は、敢えて先輩 中島梓の言い付けに背く様な思い入れたっぷりの記事を入稿した。
以下、後日発売された『マッスル、マガジン』誌から抜粋した物である。
最初は ゼッケン1番 田中忠選手…
エルビス,コステロ 『She』…
ゆったりとしたバラードに合わせて、しっとりと魅せてくれた。
いぶし銀と言われる彼に 実によく似合う選曲、まさに職人の仕事であった。
ゼッケン3番 猪狩一宏選手…
『スタン,ハンセンの入場テーマ曲』…
ゆっくりとした出だしから一気に盛り上がる曲調は、バルクで押しまくる彼に、
よくマッチした選曲であった。
まさに「ブレーキの壊れたダンプカー」の如く、破壊力抜群のフリーポーズであった。
ゼッケン5番 吉岡修司選手…
矢沢永吉 『黒く塗りつぶせ』…
まさに ゲット、ノー、サディスファクション…一部で不遇の男と言われている彼の心情に
ぴったりの選曲だった。
全てを黒く塗りつぶしてやる!見ている者に、彼の心の叫びが伝わって来そうな
素晴らしいフリーポーズであった。
ゼッケン7番 大河実選手…
BON,JOVI 『夜明けのランナウェイ』…
大河実といえば『夜明けのランナウェイ』、『夜明けのランナウェイ』といえば大河実。
全日本でも、アジア選手権でも、ユニバースでも 常にこの曲、まさに彼の細胞の隅から隅まで染み込ん
でいるかの如き 滑らかな流れで王者の風格充分であった。
ゼッケン9番 新屋誠選手…
インストゥルメンタル 『必殺仕事人のテーマ』…
ベテラン新屋は、まに仕事人だ。きっちりと仕上げ、きっちりとポーズをとり、
きっちりと魅せてくれる。
彼が得意のバックポーズを強調するたびに、館内にどよめきが起こった。
思わず「お父さん、良い仕事をしてますね!」と声を掛けたくなって来る。
ゼッケン11番 宮本護…
G,ホルスト作曲 『ジュピター』…
スケールの大きな宮本選手の身体に この雄大な曲は 見事なまでにマッチしている。
指先まで 神経の行き届いた宮本選手のポージングは まさに芸術的、もしも今大会に
ベストポーザーの表彰があったらば 私は迷わず彼を推薦したであろう。
決勝フリーポーズが終わった…
いよいよ 各クラスの結果発表である。
ボディービルの結果発表は、まず決勝に残った選手全員が 一斉に得意のポーズをとり続ける。
やがて司会者が下位の選手から名前の発表を始める。
名前を呼ばれた選手から 順に姿を消していき、最後まで名前を呼ばれなかった選手が優勝である。
これがいわゆる゛ポーズダウン゛ サドンデスの緊張感で観客の興奮は、ピークに達する。
70キロ級結果発表!
『ポーーーーズダウン!』
司会者の絶叫が館内にこだまする!
激しいロックのビートが鳴り響く!
6人の選手が一斉に ステージ最前列まで押し寄せて来る!
全選手、最後の力をふり絞り 闘う!競う!ねじ伏せる!
宮本護の身体に、吉岡修司の身体が 激しくぶつかる!……ピクッ!
宮本護が吉岡修司に呼応する!……ピクッ!
二人の汗が飛び散る!……ピクッ!
ステージ上の 6人の中で この2人だけが あきらかに別空間にいる様な錯覚を受ける…
神よ!この2人に、もっと時間を…
『それでは 第6位!』
ドクン!ドクン!ドクン!ドクン!……
『ゼッケン1番 田中忠選手!』
館内が どよめく…意外にも最初に呼ばれたのは、去年の2位 田中だった…
田中は少しだけ 不満な表情を見せると、そのまま下がって行った…
『続いて 第5位! ゼッケン3番 猪狩一宏選手!』
若い 猪狩は悔しさを隠そうとはしない…
腰に両手を当て そのまま天井を見つめ、そして吠えた…
『第4位! ゼッケン9番 新屋誠選手!』
ベテランの新屋は さすがに悔しさを表面に現したりはしない。
少し 苦笑いを浮かべると そのまま去って行った…
残るは3人 修司、護、そして大河…
くしくも 同じ大学ボディービル部出身の3人が残った。
大河が 2人の間に割って入ろうとする…
なんと、護が それを手で払いのけた…
゛例え 大河さんでも 俺達の闘いを邪魔させない!゛
大河の苦笑い…
一瞬 凍り付く客席…
しかし、場内の異常な熱気に すぐにかき消されていく…
いつの間にか美奈子は、顔を上げていた…
もう 目を逸らさないから…
だから…頑張って…
ドキ!
ドキドキ!
ドキドキドキ!
『それでは 第3位を発表します!ゼッケン番号…』
『今年の70キロ級 優勝者は、大河実選手!!』
大歓声に包まれて、大河は右の拳を 天高く突き上げた。
その目には 大粒の涙が滲んでいる…
大河がステージ上で涙を流すのは、おそらく今回が 初めてであろう。
それだけ 今回の勝利は 彼にとって大きな意味を持っていた…
優勝セレモニーを終え 控え室に戻る。
途中、85キロ級の結果発表の出番を待つ 日本選手権無差別級14年連続王者の小内英雄とすれ違う…
小内が14度優勝するうちの 実に8回までが2位に大河だった…
両者はライバルであり、ステージを離れると無二の親友でもある。
2人は ガッチリと固い握手を交わした。
『おめでとう!2年前に、あんな事があったから 正直もう無理かと思っていたよ。』
2年前………………
大河実は、このステージで2位に破れた…
彼を下したのは、大学の後輩 宮本護であった。
大河は宮本が まだ大学1年生の時から、その素質に目をつけ 育てて来た選手であった。
また宮本の妻 美奈子は、大河の親戚でもある…
大河は、素直に後輩の勝利を祝福した…
宮本は 限界まで身体を絞り込み 全てを捨て去る覚悟で この大会に望み そして勝利を物にしたのだ…
彼は 日本クラス別70キロ級王者とともに、この年 バンコクで行われるアジアボディービル選手権の
日本代表の座を手にした…
同選手権は 大河が何度も挑み あと一歩で優勝を逃し続けた彼の 否
日本ボディービル界念願のタイトルであった。
ところが、なんと10月に行われた この大会において 宮本護は、
日本人として 久しぶりの優勝を飾ったのだ…
2位以下に大差をつける、まさに圧勝であった。
この快挙に日本ボディービル界は大いに沸き返った。
そして…………
10月22日早朝…
バンコク市街からドン,ムアン国際空港を結ぶ高速道路に於いて、道路を逆走して来た乗用車と、
大型路線バスが正面衝突を起こした。
幸い バスの乗客に重傷者は出なかったが、乗用車は大破し乗員2人は即死だった…
乗用車はレンタカーであった。
この日、「タノムサク,シスホーベー」は、電話で叩き起こされた…
全く 月曜日の早朝から ついてない…
夕べは ボディービルの大きな大会を観戦した後、仲間数人と夜遅くまでシーハービールを痛飲した…
タノムサクが制服に着替え現場に到着した頃は、すでに陽が昇っていた…
『日本人の男女らしいぜ…』
仲間から 被害者のパスポートを受け取ったタノムサクは、首を捻った…
はて?この男の顔、確か何処かで…
そうだ!夕べ見たばかりだ!ボディービル会場で…
確か…ステージの上で…
゛ボディービルアジアチャンピオン、夫婦で謎の交通事故死!高速道路を逆走!゛
このニュースは たちまち日本にも伝わり、一般マスコミまでもが こぞって取り上げた…
『高速道路の入口を間違えたのか?』、『無理心中か?』あるいは『何か薬物を使用か…?』
さまざまな憶測が飛び交った…
謎は深まるばかりであったが 今年7月頃、2人の間で離婚話が持ち上がっていた事は事実らしい…
だが この話題も3日も 持たなかった…
マスコミの関心は、新しい内閣の組閣に移り 国民の話題は辞職した前総理の汚職疑惑に集中した…
しかし 一方ボディービルファンの間で彼の存在は日増しに大きくなって行った…
゛彗星の如く現れ 彗星の如く去って行った カリスマボディービルダー゛
まさに ミステリアスな彼の最期と相まって人々は彼の生き様に魅了された。
彼は自らの生命と引き換えに 伝説のボディービルダーとなったのだ。
八木道夫は、大河実 涙の復活劇を しっかりと見届けていた。
彼は今や先輩 中島梓を押し退けて『マッスルマガジン』のエース記者に成長していた。
中央の選手ばかりでなく、地方に埋もれている人材にまで丁寧に取材して回る…彼の姿勢は
多くの読者の共感を得ていた。
それも 2年前に実現した 無名の地方選手2人の歴史に残る名勝負を、目の前で見た影響であった。
その勝負のレポートが 彼のデビュー記事であり彼の原点でもあった。
彼は未だに あの勝負を取材出来た事に誇りを持っている。
この日のコンテストも全て無事終了し 彼はロビーで編集長に結果報告の電話をしていた…
『70キロ級、大河さんの復活です。また、2位の猪狩君の成長にも驚きました。持ち前のバルクにしっ
かりと密度をつけ最後の最後まで大河さんを苦しめてました。日本選手権が楽しみです。』
……っと、彼の前を一人の男が通り過ぎて行った…
何処かで見た顔…
『日本クラス別』程の大きな大会であれば 客席にも有名人が沢山いる…
何処かで会った事のある人物に、出会ったとしても不思議ではない。
Tシャツに ジーンズ姿であった…
帽子を まぶかに被っている…
Tシャツの肩、胸は大きく盛り上がり、ジーンズの太股は パンパンで 今にもはち切れそうだ…
彼は そのまま会場を出て行った…
『あの人は!!』
道夫は、後輩記者に荷物を誂え そのまま後を追った…
『吉岡さんですよね!』
その分厚い背中に声を掛ける。
男は 振り向いた…無精髭を蓄えたその顔は、とても穏やかだった。
2年前 宮本護と激闘を演じた時の あのギラギラした表情のカケラも残ってない…
『随分と捜しましたよ。』
男は無言である…
男と最後に会ったのは宮本夫妻の葬儀以来だった。
その後 男はパタリと消息を絶った…
『今 何処で何をしているのですか?』
男は、話を逸す様に語った。
『大河さんも良かったけど、猪狩君も良くなっているな。』
『はい、大河さん あれから大変でした…愛弟子と姪ごさんを同時に亡くされたんですから…
でも よく立ち直ってくれました。本当に凄い人です。で… 吉岡さんは?』
『あぁ、友達のやっている運送会社を手伝っているよ。』
『そうなんですか…吉岡さん、トレーニングの方は…?』
吉岡は 曖昧に微笑むだけだった…
『電車の時間があるんで行くよ。』
吉岡は 背中を向けて歩き出した…
八木は切なさで胸がいっぱいになった…
涙がこぼれそうだった…
堪え切れず 吉岡の背中に向かって叫んだ…
『もう1度、もう1度ステージに戻って来て下さい!!』
彼の心の叫びだった…
絶叫だった…
伝説の宮本護がライバルと認めた男……………
彼まで このまま いなくなってしまう事に、耐えられなかった…
吉岡修司は 振り向きもせず 右手を軽く挙げただけだった…
友よ…あれから2年が経った…
友よ…結局最後までお前に勝つ事が出来なかった…
友よ…あの日 お前が辿り着いた場所から、一体何が見えたんだ…
友よ…俺には結局、最後まで見る事が出来ないのだろうか…
友よ…友よ…友よ…
いつの間にか 西の空に夕陽が沈もうとしていた…
街の色が 序々に橙色に染まっていく……
2年後…『日本ボディービル選手権』 遂に 小内英雄の連続優勝の記録が、15回でストップした…
止めたのは、大河実でもなく 猪狩一宏でもなかった…
吉岡修司という無名の選手だった…(了)