boomerさんのボディビル小説

続ライバル達の唄〜again

第三章

まだ12月に入ったばかりだというのに、雪の為に大渋滞だ…
この地方に、この時期 雪が積もるのは 実に38年ぶりらしい…



『たまらんなぁ…』
太田新一は 最後となってしまったタバコに火をつけ 大きく吸い込んだ…
もう 何時間 こうしているだろうか…
さっき時計を見た時から 1時間は経っているのに 車は数メートルしか進んでいない…
っと 不意に携帯が鳴り響いた…

妻の美登理からだ…

彼女には、昼間 事務所の仕事を 手伝って貰っている…

『お疲れ様。そちらは どうですか?』
『あぁ、駄目だ…全然 動かんよ…』
『今、吉岡さんから電話があって 雪で高速が止まっているから今日中に帰れそうにないって。』
『あぁ、分かった。こっちも いつ帰れるか分からん。先にあがっていてくれ。』
『はい。気をつけてね。』

『修ちゃんも 大ハマりか…』

修司とは、あの夜以来 まともに会話を交わしていない…
何故か お互い気まずくなったままだ…
ジムにも一緒に行っていない…

それにしても あの時は驚いた…
(あの修ちゃんが…)
今年の8月にトレーニングを始めて、その時から『月刊マッスルマガジン』を購読する様になった…
そこで 毎月の様に目にした名前…


゛伝説のボディービルダー 宮本護゛


ジムデビューの日にたまたま会った本城剛は別として、最初に新一が覚えた ボディービルダーの名前 が、この宮本護と小内英雄だった…

その後、いろいろなボディービルダーの名前と顔を覚えた…
大河実に、猪狩一宏、新屋誠、田中忠…
どれも 今をときめくトップビルダー達だ…
しかし その中でも゛宮本護゛の存在は特別であった…

雑誌に綴られる彼のエピソードは もはや神話と言っても良い程 崇高な物になっていた…
中には 新一のように、彼の死後 初めてその存在を知った者も沢山いる…
彼等は 一様に生きている伝説を、一度も拝めなかった不幸を悔やんだ…

あの修司が、その゛宮本護゛のライバルだった…

最初に、マッスルマガジンの八木記者にその事を聞かされた時は、にわかに信じられなかった…
しかし、今考えると思い当たる節がない事も無い…

実は一緒にトレーニングをするようになり 少しずつ彼が 只者では無いと感じ始めていたのだ…
今やGジムの中で一番の 高重量を扱うのは修司だし、筋肉について詳しくなるに従って、彼の服に隠さ
れた部分の肉の盛り上がりが凄く気になっていた。
だが修司は 更衣室でも 決して裸になる事はなく、真夏でも常に厚着でのトレーニングだった…


新一は 去年の夏、十数年ぶりに 修司と再会した時の事を思い出していた…



最初に顔を見て すぐに誰だか分かった…
修司の風貌は、小学校時代から あまり変っていなかった…
初めて会った人間に 誤解を与えそうな無愛想な顔…
だが 幼い修司を知る新一には、すぐに彼も感激している事が伝わった…

それにしても、あの時の修司は、暗い瞳をしていた…
生きる希望も何もかも無くしてしまった様な目だった…
この十数年の間、修司がどんな人生を歩いて来たのか?
彼は決して話そうとしなかった…

新一は酒を飲むと 、よく昔の話をした…
中学入学と同時に、修司と別れて、グレてしまった事…
妻゛美登理゛との出会いで更生を決意した事…
会社を独立して、随分と苦労した事…

その度に修司は親身になって話を聞いてくれた…
しかし 修司の方から 自分の過去を話す事は一度もなかった…
やがて 一緒に仕事をする様になり、一緒にジムに通う様になった…
次第に 修司の瞳から暗い影が消えていて行くのを感じた…

しかし…

あの夜以来、再び 修司の瞳に暗い影が落とされた。
このまま、再び修司はいなくなってしまうのではないか…
新一は 不安で堪らなかった…



ちょうどその頃、N県地方に向かう新幹線の中…
一人の男が、大雪の為 足止めを喰らっていた…
彼は逸る気持ちを抑えつつ、止む事の無い雪を いつまでも眺め続けていた…





午前3時…



いつもの夢にうなされ目が覚めた…
一瞬 自分が何処で眠っていたのか分からなくなった…
辺りの景色を見渡し、ようやく正気に戻る…
夕べは 大雪で道路が動かなくなり、途中で仮眠を取ったのだった…
ヒーターをつけたまま眠ったので酷く喉が渇く…
ペットボトルの水を一気に飲み干した…
トラックの仮眠スペースでは 狭過ぎて 身体の節々が痛い…
とりあえず車外に出てみた…
一瞬、身体がブルっとくる程 空気が冷たい…
大きく伸びをして夜空を見上げた…
雪はすっかり上がって なんて綺麗な星空だろうか…

突然 空腹を覚えた…

思えば 昨日の昼から何も食べていない…
もう15時間以上も、水しか口にしていないのだ…
昔ならば カタボリックを恐れて完全にパニックに陥っていた事だろう…
しかし現在は そんな事など全く気にならない…


それにしても…


また同じ夢を見てしまった…
ただ俺を遮る奴が毎回入れ替わる…
本城であったり、大河だったり、時には八木だったりもする…


なんとも 不思議な夢である…


いつの間にか 道路の方も流れ出したみたいだ…
俺は運転席に戻ると、慎重にトラックを動かし出した…




なんとか ホテルにチェックイン出来た時は、既に夜の11時を過ぎていた…

『フゥ…』
大河実は 大きく溜め息をついた…
『新アジアチャンピオン大河実トレーニングセミナー』
本来ならば 今日の午後1時からGジムにおいて開催される予定であった…
しかし降雪による大幅な交通機関の乱れにより やむなく中止…
大河自身 このセミナーにおいて ある重大発表をするつもりでいただけに、無念であった。
このまま明日 東京まで とんぼ返りだ…
しかし その前に どうしても寄っておきたい場所がある…
新幹線の中で何度も読み返した『月刊マッスルマガジン』をベットに投げ捨て、
そのまま大の字に寝転がった…

投げ捨られた最新号の表紙には、『第○○回日本ボディービル選手権特集号』と大きく見出しがあり、
その下には若干小さく『本城剛胸中を語る。』という文字が踊っていた…




昨日は 日曜日だというのに本当に酷い一日だった…
休日返上で 配達に出れば 大雪に見舞われ大渋滞…
なんとか会社に戻って来た頃には、既に日付が変っていた…
でも まだ彼はラッキーな方だったのかもしれない…
関西方面に走って行った吉岡修司は まだ帰って来ていない…

形だけの社長席で お茶を啜りながら、太田新一は 昨日の雪の被害状況を報じる朝刊に目を通していた…

っと 来客用のブザーがなる…
『おーい!出てくれ!』
奥にいる 妻、美登理に声を掛けたが返事が無い…

『やれやれ』

仕方なく新一は、玄関に向かった…
『どちら様?』
ガラス戸を開けた新一は、表に立っている人物を見て 思わず 腰を抜かしそうになった…




信号待ちをしていると携帯が鳴った…
新ちゃんからだ…
『もしもし…』
『修ちゃん、お疲れ様…今何処?』
『もう そこまで来ている あと5.6分位で着くよ。』
『そっかー実は今、修ちゃんに 客が来ている…誰だと思う?』
『さぁ…?』
平日のこの時間に、尋ねて来る客なんて見当もつかない…
『それが…………』
興奮気味に話す新ちゃんを遮る様に電話が切れた…
この辺りは、極端に電波が弱い…
掛け直すまでもない…
もう会社は、すぐ目の前だ…


まだ大量の雪が残っている駐車場で、トラックを慎重に車庫に戻した。
昨日の大雪が まるで嘘の様に雲ひとつない晴天だ…
トラックのバックブザーの音を聞き付け、新ちゃんが事務所から飛び出して来た…

『お、おかえり〜…修ちゃん…』
『おいおい、一体どうしたんだい?新ちゃん…』
『と、とにかく来てくれ…あ〜もう!運転日報なんて後で良いから、早く!』
俺は新ちゃんに促され事務所に戻った…


『よう!久しぶりだな!』


来客用のソファーの人影が立上がり、俺に話し掛けて来た…
おそらく オーダーメイドであろう…黒い革製のジャケットを着ている…
既製の物で彼の広い肩幅に合う物なんて、まず無い筈だ…


『お、大河さん…』


『゛月マ゛の八木くんから ここを聞いたよ。』


゛大河実゛


今年のアジアチャンピオンだ…
俺と宮本護の大学の先輩であり、2年前 3人で日本クラス別70キロ級のタイトルを争った…
その時は大河が2位、俺は3位だった…

『ご無沙汰してます…』
『思ったよりも元気そうなんで 安心したよ…』
『で、今日は何の?』
お茶で渇いた喉を潤しながら 尋ねた…

『八木くんから聞いたと思うが、今年ようやくアジアで優勝出来たよ。』
『あ、聞いてます…おめでとうございます…』
『で、このタイトルを手土産にってのは変だけど、引退しようと思ってる…』

『えっ!!!』

隣りで聞いていた新ちゃんが、すっ頓狂に驚いた…

『但し、俺には まだ一つだけ忘れ物がある。』
『忘れ物?』
『ああ、全日本のタイトルだ…』
『!』
胸が高鳴る…
何故だ…
大河の口から『全日本』という言葉を聞いただけで、背筋がゾクリとした…

『俺が日本人で勝てなかった ゛小内英雄゛゛宮本護゛そして゛吉岡修司゛に勝って、来年の全日本を獲 る。まぁ、護に勝つのは もう無理だけどな…』
『大河さん…何ふざけた事を言っているんですか…俺は2年前 大河さんに負けてます。』
『審査結果ではな…しかし、ジャッジ大河実の目では、間違いなく吉岡修司の方が勝っていた…』
『そんな…』
『いいか修司…俺は昔から欲しい物は全て手に入れて来た。今俺が欲しいのは、゛小内英雄゛とお前に勝 っての全日本のタイトルだ…』

『すげぇ…』

思わず新ちゃんが 声を上げた…

『現役最後の忘れ物を来年 獲りに行くぞ。修司出て来い!』
『大河さん…俺はもう…』
『それに 他に一人ぶっ潰したい奴もいるしな…』
そういうと 大河は鞄から取り出した『マッスルマガジン』を俺に差し出した…
『最新号だ…36ページを読んでみろ。』



゛本城剛胸中を語る゛



―全日本は結局3位でしたが?


゛大いに不満だね。小内さんにしても大河さんには、完全に勝っていた。俺があの人達に負けてたのは、 実績だけだね。゛


―随分過激な発言ですが…


゛俺は事実を言っているだけさ。でも小内さんも大河さんも年齢的にも もう伸びはないだろう。
俺はまだまだ伸びるよ。来年確実に二人に追い付き、追い越すさ。゛


―それは、来年の優勝宣言と受け取ってよろしいのですか?


゛イエッサー、過去の人達には、引導を渡す それも俺の役割さ。゛


―過去と言えば 本城さんの憧れは、あの゛宮本護゛選手でしたね?


゛昔はな…。でも もう完全に越えちゃってるでしょ。結局 最終的には、あの人は負け犬だったんだよ ね。
まぁ こんな事言うと反感買いそうだけど、負け犬が勝ち逃げしやがったって感じかな。反吐が出るよ。゛



肩が震えた…

腹の底から怒りが込み上げて来る…

(お前に何が分かる…)

どす黒い物が身体中を駆け巡る…

(お前に何が…)

いつの間にか手にした゛マッスルマガジン゛をくしゃくしゃに握り潰していた…

(お前に…)

『出ろよ。修ちゃん…』
『新ちゃん…』
『俺も こいつも 出来る限りのバックアップをするからさ。実は修ちゃんの正体が分かった時から、 こいつとは話していたんだ。』
いつの間にか 細君の美登理も新ちゃんの隣りにいた。

『吉岡さん…会社の皆も応援するから、だから心起きなく闘って。』
『美登理さん…』
熱い物が込み上げて来た…
『来年10月に会おうぜ。』

大河が右手を差し出した…
俺は震える手で それを握りかえした…



何処からか風に乗って、ジングルベルの音色が聞こえて来た…






「波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。」

(宮本武蔵/吉川英治)




本城剛は、ずっと闇を見据えていた…


派手な彼の外見からは、想像もつかない程の質素な部屋である…
テーブルもオーディオ機器も、テレビさえない部屋である…
ただ冷蔵庫と、クローゼット、そして、この部屋に不似合いな大きなダブルベットがあるだけの部屋…


今年の日本選手権は3位だった…

去年 初出場で6位…

大躍進である…

しかし 彼は不満であった…

゛去年から今年に掛けて 俺の身体は、どの位伸びたのだろうか?゛

その実感がない…

もしも その手応えを感じていれば、例え5位だろうが6位だろうが満足していた筈である…

゛俺は停滞している…゛

おそらく本人にしか分からない感覚である…

それだけに もどかしい…

今や 何処に行っても女性ファンが殺到し、雑誌記者に追い掛けまわされる毎日…

゛お前は それで満足なのか…?゛

゛否゛

゛俺は芸能人なんかじゃない…俺はボディビルダーなんだ…゛

゛今のままでは駄目だ…俺はこのままで終わってしまう…゛

゛何かを変えなければ…゛

゛何かを…゛




『話したい事がある。取材に来て欲しい。』

八木道夫が 本城剛からの連絡を受けたのは、日本選手権からおよそ1ヶ月後の事であった…
願ってもない事だ…
今や 本城のインタビューは一般誌でさえ 飛び付く程の価値がある物だ…
それを 1ボディビル雑誌でしかない『マッスルマガジン』で独占掲載出来るのだ…
八木は早速スケジュールの調整に入った…



インタビューは本城の所属するSジムの喫茶スペースで行われた…
本城自身から取材の申し出があってから3日後の事である。
彼はトレードマークのサングラスに、真っ赤な革のジャケット、黒革のパンツという
おおよそボディ ビルダーには似つかわしくない格好だった…

゛何処にいても絵になる男…゛

現れた彼を見て 八木はそんな事を考えていた…
しかし 今や彼の代名詞となった爽やかな笑顔は何処にもない…
一通りの挨拶を済ませ インタビューに入ろうとする八木を、本城が遮った…

突然 サングラスを外した…

その目は真剣そのものだ…

八木の耳に 顔を近付け小さな声で彼が囁いた…

『実は八木さんに頼みがあるんだ…』



八木が本城の申し出を受ける気になったのは、彼の口からあの『吉岡修司』の名前が出たからだ…
しかし この賭けは、本城にとって 否 日本ボディビル界にとっても あまりにもリスキーだ…
一歩間違うと゛本城剛゛というスーパースターはその座を失い、彼の出現で にわかに盛り上がりを見せ ている
ボディービル界は、再び冬の時代に突入し兼ねない…


しかし…


あの天才『宮本護』を熱くさせた男『吉岡修司』
゛彼と切磋琢磨する事により、自分も もう一つ上に行けそうな気がする…゛
゛その為になら、自分は 例え憎まれ役になっても構わない…゛
この話を持ち掛けられた時、八木は改めて゛本城剛゛という男の凄みに気付いた…

派手な外見からは、想像つかないが、彼もまた侍なのだ…

本城の願いが叶えば あの『吉岡修司』が復活する…

それは八木にとっても この上ない喜びである…

二人の利害関係は完全に一致した。

こうなったら 徹底して゛悪役 本城剛゛を奉り上げてやる…

八木は最後に会った時の 修司の苦悩の表情を思い浮かべ、強く決意を固めた。



反響は凄まじかった…



インタビュー記事の載った『月マ』発売翌日、本城は彼のスポンサーである大手男性肌着メーカー『G』
の広報部から呼び出しを受けた…
広報部長は、本城の顔を見るなり、苦虫を噛み潰した様な顔で問題の『月マ』を目の前に放り投げた…
『残念だが、君とのスポンサー契約も今日までだ…どうやら君には人間としての品格が欠如しているみた いだ…
それを見抜けなかった我々も馬鹿だったよ…』
『………』
『話はそれだけだ。もう二度と我々の前に顔を見せないでくれ。非常に不愉快だ…』
本城は無言で一礼すると、そのまま部屋を出て行った…
『誰か塩を撒いとけ!』
広報部長が大声で叫ぶのが聞こえて来た…

その日のうちに他のスポンサー4社からも同じ様な宣告を受けた…

更にジムでのトレーニング中も聞こえよがしに嫌味が聞こえて来る…
『思い上がって、一体何様のつもりだ…』
『周りにちやほやされて、良い気になりやがって…』
『身体は凄くても中身はクズ以下だ…』
それらの批判を全て受け止めた…
いつの間にか あれ程殺到していた一般マスコミからの取材依頼も、全く来なくなってしまった…
そして遂には、本城を慕うファンも 次々と離れていった…

彼の味方は、もはや誰もいなくなった…

彼はとうとう独りになってしまった…


゛これで 良いのだ…゛

゛元々 あの日、冴子を失ってから俺はずっと独りなのだ…゛

それにしても 八木からは まだ吉岡復活の報告が届かない…

既に4月…

そろそろ『マッスルマガジン』編集部に 報せが届いても良い頃だ…




八木は、アルバイトの女性から手渡された分厚い郵便物を、逸る気持ちを押さえ開封した…
表には『○○年度連盟登録選手名簿』と記されている…
待ちに待った書類だ…
連盟では その年度の初めに所属県連の選手登録を済ませておかなければ、どんな選手であろうとも、
そ の年の連盟主催の大会に出場出来ない。
ようやく 今年度の登録名簿が、今日届いた…
何よりも先に、N県登録選手のページをめくる…

登録選手72名…

しかし いくら探しても、その中に 『吉岡修司』の名前は無かった…
『伝わらなかった…』
八木は全身の力が抜けていくのを感じた…
年明けに 太田新一から 修司が復活を決意したという報せを受けたが、
この目で確認するまで安心出来なかった…
そして今、最も恐れていた結果…
どうやら、彼の情報はガセだったようだ…

はぁ〜…

八木は、やるせない気持ちで名簿をパラパラと捲った…
っと一番最後のページ…社会人登録名簿の所で手が止まった…
こちらは 企業のボディービルクラブに所属する選手の名簿である…
何げなく捲ったそのページで それを発見した瞬間 彼はまるで子供の様な歓喜の声を上げた…


〔太田運送ボディービルクラブ…吉岡修司〕


『来た!来た!来たぁ!!』


八木は 興奮のあまり震える手で共犯者の携帯番号を押した…







復帰を決意してからの 吉岡修司のトレーニングは凄まじかった…



まるで何者かに取り憑かれたかの様な のめり込み方だった…
まさに見ている者のまでもがが、呼吸困難になりそうな程の 壮絶さだった…
とにかく毎回意識を失う寸前まで己を追い込むのだ…
そのうち一度は、本当に倒れて込んでしまい、実際に救急車を呼んでしまった事もある…
しかし 救急隊員が到着した頃には、既に回復した彼は何事も無かったかの様に、
次々にセットをこなしていた…
さすがに この時は、こっぴどく叱られた…


太田新一に とっても それは大変な毎日であった…
毎回 修司のトレーニングに付き合う…
まだまだ 初心者の新一にとって、修司の補助は かなりの重労働であった…
なにしろ、修司の扱う重量は半端ではない。
修司よりも先に、補助者の新一が潰れる事も しばしばあった…
それでも、新一は音をあげる事なく 最後の最後まで修司に付き合った…



修司が 調整に入ったのは四月に入ってからだった…

修司流の減量法は、米やパンなどの炭水化物を極力減らし、有酸素運動を増やすという、 シンプルなやり方だった。
どんなに朝早い仕事の日でも、必ず毎朝1時間は走った…
雨の日も 風の日も走った…
長距離の仕事の時は、旅先でも走った…
睡眠時間は、ほとんど4時間足らずの毎日だった…
しかし、極限まで神経は研ぎ澄まされ、眠気に襲われる事などは 無かった…


八月に入る頃には、既に修司の身体からは、無駄な脂肪分は ほとんど取り除かれ、その鋭い筋肉の群れ 達が、
牙を剥き出しのままの表情を浮き上がらせ始めた…



復帰戦に修司達が選んだのは『日本社会人ボディビル選手権』だった。



企業内のボディビルクラブ所属選手によって争われるこの大会は、長い歴史と伝統を誇り、過去に数々の
大物選手を輩出して来た。

あの小内英雄や大河実も かつて、この大会を制している…

修司が、大河実や本城剛の待つ『日本ボディビル選手権』に駒を進める為には、ここで6位以内に入賞す る必要があった…
いわば、これは権利取りの為の闘いであると同時に、本番前の一叩きという意味合いを持っていた…
日程的にも 本番のちょうど1ヶ月前と、調整にはもってこいだ…
更に、この大会の審査員が 『日本選手権』と ほぼ同じ顔触れだという点も、無名の修司が、名前と顔を 売るのには好都合である…


さっそく 新一は、会社内に、ボディビルクラブを設立した。

『太田運送ボディビルクラブ』

代表者…太田新一

所属選手…吉岡修司

たった二人きりの ボディビルクラブ…


そして…


9月第一土曜日…

品川区立総合会館…

観客が最初に驚いたのは、客席の顔触れであった…
去年新アジアチャンピオンに輝き先日 今年の日本選手権を最後に引退する事を発表したばかりの゛大河実゛
今や 日本ボディビル界 始まって以来の ダーティーヒーローとなってしまった゛本城剛゛
この二人のニアミスは、例の『月刊マッスルマガジン』のインタビュー記事での因縁もあり周囲は 一気 に凍り付いた…


しかし、その直後…
観客は その事さえも忘れ去ってしまう程の衝撃を受ける事となる…


一般の部予選審査…
参加選手23人がステージに現れる…

ゼッケン番号13番…

皆の目が一斉に一人の無名選手に注がれる…


゛がや、がや、がや…゛


彼がステージに現れた瞬間から、ざわめきが起き それは やがて、どよめきとなり館内を駆け巡る…
彼がポーズを決めるたびに その うねりが周辺に広がっていく…
やがて 会場全体が まるで巨大な波に呑み込まれたかの様に覆い尽くされていく…



久しぶりに立ったステージは熱かった…

ほんの少し身体を動かしただけで、汗が吹き出て来る…

隣りの選手の体温が息遣いが、ダイレクトに伝わって来る…

しかし、この熱気は隣から伝わって来る物だけではない…

何処から…?

一体 何処から…?

どうして、そんな顔をしているんだ?

どうして、皆そんな顔を…?

驚いているのか?

何を見て…?

誰を…?

皆一体誰を見ている…?

皆一体何に驚いている…?




『す,凄い…』

八木道夫は、仕事も忘れ、ただステージを眺めていた…
これ程の物だったとは…
久しぶりに見る 彼の身体は 肩、腕、胸、背中、脚と全てのパーツが一回り程巨大化しており、
まるで一 人だけ 違う生命体が立っているかの様だった…
確かに3年前に比べると 若干甘い印象もあるが、あの筋密度は健在で、あと1ヶ月も 調整を詰めると

間違いなく、素晴らしい状態に仕上がる筈だ…
『誰だ…アイツは…?』
隣りでライバル誌『月刊パンプアップ』の編集者、竹内が、パンフレットを広げ名前を確認する…
『゛月マ゛さん、あの13番の選手 知ってるの?』
『あぁ、ウチの今年のミスター日本 大穴候補ですよ。とりあえず今の時点ではね…』




ずっと 気付かずにいた…

否、本当は もうとっくの昔に気付いていた…

ただ、忘れていただけなのだ…

思い出す事を 拒んでいたのかもしれない…


決して゛宮本護゛に勝つ為に続けて来た訳ではなかった…


決して゛大河実゛に誘われたから戻って来た訳ではない…


決して゛本城剛゛と闘いたくて帰って来た訳でもない…


随分 前から分かっていた筈だ…


初めてステージの上に立った その日から ずっと…


否、初めてバーベルを握った日から そうだった…


ずっと言えなかった…


恥ずかしかったから…


照れくさかったから…


だけど今なら胸を張って言える…




俺は心からボディビルが好きだ…



その気持ちに一点の曇りも無い…(了)





※主な登場人物

吉岡修司…この物語の主人公、2年前 日本クラス別選手権において宮本護に敗れ、その後 護の死にショックを受け
       ボディビル界から姿を消す。

宮本護…修司の宿命のライバル。アジア選手権優勝後、妻と供に交通事故死。伝説のボディビルダーとなる。

太田新一…修司の幼馴染みであり、修司の働く運送会社の社長。

大河実…修司、護の大学の先輩。『大河マジック』の異名を持つ 現アジアライト級チャンピオン。

小内英雄…今年遂に日本ボディービル選手権15連覇を達成したキング、オブ、ボディビルダー

本城剛…日の出の勢いで躍進するイケメンビルダー。吉岡修司と宮本護の熱い闘いを見て覚醒。
      護を彷彿させる身体を有している。

八木道夫…『月刊マッスルマガジン』の編集者。