boomerさんのボディビル小説

ライバル達の唄・最終決戦

第一章

目的地に着いたのは 午前4時前だった…

会社を出発したのが、昨日の夜11時前だったから、およそ5時間近く掛かった事になる。


K港の中にある 巨大倉庫…

積んで来た荷物を卸すには、朝8時を過ぎるまで待たなければならない。

あと4時間…

いつもならば、軽く食事を済ませ、少しでも仮眠を取る所である。

いつもならば…


俺は大型トラックから降りると大きく伸びをした。

つい1か月程前まで 生暖かかった夜風は ひんやりとして、もうすっかり秋のそれである。

しかし、今の俺には、そんな事を感じている余裕は無かった…

足、腰、背中と入念にストレッチを済ませると、暗闇の中をゆっくりと走り出す…

ジョギング程早くもなく、かと言って早歩き程遅くもない。

そんな速度である…

遠くから 外国船の霧笛が聞こえて来る…



僅か10分程走っただけで、ふつふつと全身から汗が吹き出て来た…

おそらく、かなり代謝が上がっているのだろう…

大きく吸い込んだ息を、今度は大きく吐き出しながら、一歩一歩丁寧に踏み締めながら走る…

げっそりと頬がこけ、真っ黒に日焼けした男が、こんな時間に走ってる…

そんな俺の姿を、夜勤の港湾労働者達が、いかにも怪訝そうに眺めていた…



2週間前の興奮が まだ全身に残っている…

あの日、俺は3年ぶりにボディビルの舞台に立ち、そして優勝した。

そこで 初めて気付く事が出来た。

俺は ボディビルが好きだから戻って来たのだ…

ただそれだけの事だ…

そこには 本城剛も、大河実も、そして 小内英雄も存在していなかった…

ただ ガムシャラに身体を造り、ステージの上で必死に己を表現する…

実に単純明解だが、それが紛れもない全ての答えだと気付いた…



『優勝、ゼッケン13番 吉岡修司選手!!』


そう告げられた時の、新ちゃん夫妻の歓喜の表情が今も目に焼き付いている…

本当に、この人達の為にも 戻って来て良かった…

心から そう思った…


だが…


俺の闘いは まだ終わっちゃいない…

2週間後…

『日本ボディビル選手権大会』

文字通り、今年の日本一のボディビルダーを決める大会である…

そこに 俺は究極の仕上がりで臨むつもりだ…

優勝した社会人大会は、まだまだ甘い仕上がりだった…

これから 2週間、もっともっと絞るつもりだ…

否、絞り切らなければならない…



俺の生涯のライバルであり 真友…

天才と言われながらも 遂に その舞台に立つ事もなく この世を去った…

伝説のボディビルダー宮本護が果たせなかった夢を叶える為にも…









その男が入って来た瞬間、ロッカールームの雰囲気は一変した…
それまで至る所で、和やかに交わされていた お喋りは一斉に中断され、室内にしらけた空気が漂った…
それを察してか、男は遠慮がちに、一番隅のロッカーへと向かう…

トレードマークのサングラスを外し男は着替えを始めた…
目を見張る様な美男子だった…
その辺の芸能人では太刀打ち出来ない程の端正な顔立ちであった…
真夏の向日葵の様な爽やかな若者であった…

しかし…

その美しい顔に、いくつもの憎悪の、そして軽蔑の眼差しが突き刺さる…

若者の存在を無視する様に、そのまま部屋を出て行く者…
わざと聞こえよがしに舌打ちをする者…
中には いかにも憎々しげに大きな溜め息をつく者までいる…
そんな周りの者達を無視して 若者は着替えを始めた…

上着を脱ぎ捨てた若者の身体を見て、一瞬周りの誰もが息を呑む…
信じられない程 細くくびれたウエストから翼の様に大きく広がる背中は
この世の物とは思えない程の美しさである。
更に 胸、肩、腹、そして背中と そのどの部分にも 一欠片の余分な肉も残っていない…


『いくら身体が凄くても中身があれじゃなぁ…』


不意に 何処からか声がする。
着替えを済ませた若者は、その声を無視して部屋を出て行った…


゛本城剛゛


それが 若者の名前である。
2週間後に行われる『日本ボディビル選手権』の優勝候補の一人である。
ちなみに、一昨年の成績は6位、そして去年は3位だった…
彼は2週間後の闘いに、選手としての、否、これまでの人生の全てを賭けていた…


ロッカールームから出てくると、マネージャーの今井に声を掛けられた…

『本城くん、ちょっと…』

そのまま二人はジム内の喫茶スペースに移った…
かつて 彼が何度も何度もマスコミの取材を受けた場所である。
『15時からの倉田さんと、19時からの田崎さんからもキャンセルの電話が入ったよ。』
『………』
『これで 今日もクライアントはゼロだな。』

彼は このジムでパーソナルトレーナーの仕事をしていた…

パーソナルトレーナー…

個人と契約をして、個別に指導をするトレーナーである。
彼の勤めるSトレーニングジムでは、パーソナルトレーナーにジムからの給料は出ない。
彼等にはクライアントから支払われる一回幾らの指導料のみが収入源となる。
当然、優秀なトレーナーにはクライアントが殺到し、そうでないトレーナーには全く依頼は来ない。
それが、即収入に直結する訳だから実にシビアな世界である。
彼は かつて このジムで一番の売れっ子トレーナーであった…
持って生まれた美貌にスター性、更に日本のトップビルダーという肩書きが、彼をその地位に押し上げた…
連日、開店直後から 閉店まで、食事時間以外の 全てのスケジュールが埋まっていた。
北は北海道から 南は九州まで わざわざ彼のレッスンを受ける為に押し掛けて来る人も珍しくなかった…
このパーソナルトレーナーとしてのギャラと、5つの会社とのスポンサー契約で 彼の生活は充分に潤っていた…

しかし…

あの件以来、5つの会社全てのスポンサー契約は打ち切られ、クライアントの数も激変した…
今年に入ってから、ほとんど収入らしい収入は無い…

しかし これは彼自身が望んで選んだ道である…
彼は これだけのリスクと引き換えに 充分過ぎる程の物を手にしていた…

刺激、生き甲斐、好敵手…

今からちょうど2週間前、品川区立総合会館…
そこで表彰台の一番高い場所に立っていた男の無愛想な顔、荒々しい肉体が目に浮かぶ…
更に彼を通して、一度も相まみれる事なく、この世を去った伝説の男の美しい肉体が目に浮かぶ…


『実は 非常に言い難いのだが、今年に入ってからジムの会員数が激減している…』
『………』
『原因は 分かっていると思うが 君のあのインタビュー記事だ。』
『………』
『ハッキリと言おう。君には辞めて貰いたい。もちろん今すぐにとは言わない。君も大変な時期だし、 2週間後の日本選手権が終わるまでは
ジムの設備を利用して貰っても構わない。但し、それが終わったら ここを出て行って欲しい。』

これには 彼も一瞬ムっとした…
これまで 彼がどれ程 このジムに貢献しただろうか…
特に女性会員の獲得に彼の功績は計り知れない…

しかし、彼はいつもの爽やかな笑顔を浮かべこう言った…
『大丈夫です。心配しないで下さい。トレーニングは何処ででも出来ます。了解しました。今日で辞めます。
今迄 本当にお世話になりました。』

そう言い残すと深々と頭を下げ 彼はその場を離れて行った…





宮川敏光は 今朝も10時過ぎに入館手続きを済ませた…


2年前に 大手の自動車メーカーを定年退職してからというもの、ほぼ毎日、この時間にここに通っている…

T市民体育館…

そこにある トレーニングルームで汗を流す事が彼の日課である。
四十代半ばでトレーニングを始め、一度は病気で中断したものの、定年後、再びその熱に冒されていた…

『おはようございます!』
いつもの様に、挨拶を済ませると、軽くおじぎをして室内に入って行く…

『あ、おはようございます。』
入口 横の受付に座っている、一応インストラクターの肩書を持つアルバイトの若者が、読書中の手を休め、
おじぎをすると再び読み掛けの本に目を戻した。


質素なトレーニングルームであった…
室内には、二昔程前のサーキットマシン…
5キロから20キロまで、5キロ刻みのダンベル…
およそ130キロまで組めるバーベルセット…
更に3台のエアロバイクが揃っている程度である…

しかし 室内は沢山の人で 溢れ返っている…
その ほとんどが老人である…
特に平日の午前中は、老人が多い…
医療制度の見直しにより 病院の待合室という場を無くした彼等にとって ここは絶好の社交場でもあった…
何しろ、1回150円、更に1ヶ月分の定期券を買うと1000円という料金で、毎日でも利用出来るの だから
金銭面の負担は極めて少ない…


『おっ!』


宮川の視線が、一人の青年と合った…

『おはようございます!』

青年の方から 挨拶をして来る。
実に礼儀正しい青年である…
真夏の向日葵の様な爽やかな青年であった…

そして…

目を見張る程の美しい顔立ちであった…

『やぁ、今日も早いね。』

宮川が最初に彼と出会ったのは 今から1週間程前だった…
青年は、その日突然と現れた…
それから、毎日顔を会わせている…

『ただ物ではない…』

それが 青年に対する彼の第一印象であった。
誰もが ふり返る程の綺麗な顔立ちももちろんの事、厚手のトレーナーの下から盛り上がる筋肉の形は、
ウエートトレーニング歴 十数年の宮川の目を釘付けにしていた…
(しかし、以前に何処かで会った気がするのだが…)



青年は すぐに周りと打ち解けて行った…
いつの間にか老人達は、青年にいろいろとアドバイスを求める様になっていた…
青年は、例えどんなにくだらない質問であっても、嫌な顔ひとつせずに、一つ一つ丁寧に答えていた。
それが例え自分のトレーニングの最中であってもだ…

頼り気の無いアルバイトのインストラクター達よりも常に青年の助言は適格だった…
宮川も 一度 ベンチプレスの補助を頼んだ事がある…
実に絶妙で、効果的な補助だった…


いつの間にか、男女を問わず、青年の周りには常に沢山の老人達が集まっていた…
最近、彼等の表情が格段に明るくなった様な気がする。
青年の出現で トレーニングルームそのものの雰囲気が変わって行った…
(彼には、周りを魅き付ける天性の資質があるのかも しれない。)
宮川は 青年の端正な横顔を眺めつつ そんな事を考えていた…

しかし…

一体、何をしている人物なのだろうか?

平日の こんな時間に 毎日通っている訳だから、世間で言われる、まともなサラリーマンとは思えない。
何しろ 朝一番には必ずいて 宮川の帰る午後1時頃には、まだ黙々とトレーニングを続けているのだから…

水商売?ホスト?

あるいは、そういう職種の人間なのかもしれない…
しかし、そういう人であるならば こんな場末の体育館なんかではなく、もっとお洒落で
最新式の設備の あるジムに通うのではないか?…
何より、あの筋肉の盛り上がり方に、不健康なイメージのする それらの職業は合っていない様な気がする…

そして、どうしても気になる事が…

確かに 以前、彼とは何処かで会った事がある筈なのだ…
それが 何処だったのかが どうしても思い出せない…

そして、もう一つ…

この1週間で、青年が目に見えて やつれて行っている様な気がする…



今日のトレーニングも充実していた…

いつも通り、最後に20分程 エアロバイクを漕ぎ終えると、軽くストレッチを済ませ、
宮川はトレーニングルームを後にした…
『お先です!』
出口付近で一礼をする…
『お疲れ様でした!』
いつもの様に 青年の明るい声が返って来る…



宮川は 帰りに本屋に立ち寄った…
今日は『月刊マッスルマガジン』、『月刊パンプアップ』の発売日である。
宮川は どちらかと言えば選手情報が中心の『マッスルマガジン誌』よりも トレーニングや食事情報に
詳しい『パンプアップ誌』の方を好んだ…
だから毎月購入するのは『パンプアップ』の方で『マッスルマガジン』は立ち読みで済ませている。
彼は 例によって レジに持って行く『パンプアップ』の方を小脇に抱え、 『マッスルマガジン』をその場で捲った…
表紙には『日本選手権直前特集号』と記されている…

表紙を捲ると、最初のページに渾身のマスキュラーポーズをとる選手のカラー写真があった…

『超新星現る!』『吉岡修司、断トツで社会人を制す!』と見出しが踊っている…

『ほう…』
宮川は、その男の 素晴らしい肉体に 思わず声を漏らした…
更にページを捲っていく…
『特集!日本選手権大予想!』というページに目が止まる。
そこには、現日本チャンピオンの小内英雄をはじめ、日本選手権有力選手達が、カラー写真で紹介されていた…


『今年も王者は俺だ!前人未到!巨人は16度目の栄冠を目指す…小内英雄』


確かに彼は凄い。
宮川がまだ トレーニングを始めた頃から ずっと王者であり続けているのだから…


『現役最後の忘れ物を獲りに!遂に悲願なるか!現アジア王者…大河実』


数々の実績を残して来たスーパースター大河実も 遂に今年で引退らしい…
出来れば、最後に悲願の日本チャンピオンを獲らせてあげたいものだ…


『あ!!』


次のページを捲った瞬間、宮川は思わず大きな声をあげてしまった…
周りが一斉に こちらに目をやる…
しかし そんな事にも気付かない程、彼の胸は、大きく高鳴っていた…


『時代は既に俺の物!罵倒したい奴は するがいいさ!俺がお前等を、実力で黙らせてやる!…本城剛』


そこには、いかにも憎々しげな表情でポーズを取る若者の姿が載っていた…


それは まぎれもなく 先程まで 明るく爽やかな笑顔で周りと接していた あの青年であった…






八木道夫は激しい葛藤の中にいた…



果たして 自分達のやった事は間違いではなかったか?
少なくとも 絶対に正しい事をしたとは言い切れないのではないか?
あの男にとってあの選択は、本当にベストだったのだろうか?
いくら考えても、本当の答えが見つからない…


八木が『月刊マッスルマガジン』を発行するK出版に入社して早4年の歳月が経っていた…
今や押しも押されぬ『月刊マッスルマガジン』のエース記者である…
既に日本のボディビル界において、編集長の荒川をも凌ぐ人脈と人望を集めていた…

しかし、決して最初から優秀な記者だったという訳ではなかった…
どちらかと言えば好きでなったボディビル記者でもなかった…
そんな彼が 芯からこの仕事に のめり込んでいった きっかけ…
それが3年前の『日本クラス別70キロ級』の闘いであった…
言い換えれば 宮本護 対 吉岡修司の最後の闘いである…

そして、彼の他に もう一人 この闘いによって人生が変わった人物がいた…


本城剛である…


それまで ボディビルに否、人生に対して絶望していたこの男は、この闘いを見て覚醒…
瞬く間に 日本のトップビルダーに、そして ボディビル界をも超越したスーパースターに駆け登って行った…
彼の周りには 常に大勢の人々が取り囲み、彼の行く先を数多くの女性ファン数多くのマスコミが追い掛けた…


しかし…彼は大いに不満だった…


ここ暫く自分は停滞してしまっている…
自分でしか分からないこの感覚…
このままでは 自分は終わってしまう…
常にそういう不安が付きまとった…

彼は 刺激を求めた…

彼にとっての最上級の刺激…

それが゛吉岡修司゛であり、常に修司の背後に存在する 今は亡き伝説のボディビルダー゛宮本護゛であった…

彼は自らが悪役になる事により、まんまとボディビル界から姿を消していた吉岡修司を引き戻す事に 成功した…
しかし それにより彼は 限り無く多くの物を失ってしまう事になる…
仕事、地位、人望、取り巻き、お金、そして名誉…

彼と結託して『月刊マッスルマガジン誌』において゛悪役 本城剛゛を祭り上げて来たのが八木道夫であった…
二人はいわゆる共犯関係にあった…
八木もまた 吉岡修司の復活を心から願う一人でもあったのだ…



゛本城がSトレーニングジムを辞めてしまったらしい…゛


八木が その報せを受けたのは 日本選手権を週末に控えた月曜日の事であった…

すぐに連絡をとる…

しかし ずっと携帯の電源はオフになったままだ…
『いつも試合の週は電源を切っている。だから その時に 親が死のうが 恋人が死のうが、
俺が駆け付ける様な事はない。』

以前に 本城の口から、そういう話を聞いた事がある…
仕方なくSトレーニングジムのマネージャー今井に確認をとってみる…
どうやら噂は本当だったようだ…
しかし、彼も本城が今何処でトレーニングをしているのかまでは知らないと言う…


八木が知り合いの伝てで、ようやく本城の居場所を掴んだ時は すでに木曜日になっていた…


『よりによって、こんな場所で…』
八木は その日の午後には T市民体育館の前に立っていた…
Sトレーニングジムの近代的なデザインとは、比べ物にならない程の地味な外観であった…

受付で入場料を支払いトレーニングルームの場所を尋ねる…
案内されたトレーニングルームは建物の一番奥に位置していた…
外から室内を覗き込む…
中は、そこがトレーニングルームとは思えない程に、ひっそりとしていた…

入口横の受付で学生風のインストラクターが暇を持て余していた…
そのすぐ隣りで 老人が一人 エアロバイクを漕いでいる…

そして…奥のフリーウエイトゾーンに、静かに佇む一人の男…
男は、じっとバーベルを睨んでいた…
バーベルはラックの一番上に置かれている…
おそらく スクワットのセット中であろう…
バーベルの両端には、ここにある全てのプレートが取り付けられていた…
それでも総重量は150キロに遠く及ばない…


綺麗な顔立ちの若者であった…
何処か 真夏の向日葵の様な爽やかさを秘めている…
彼が そこにいるだけで周りが華やいで見える…

更に目を惹くのが、厚手のトレーナーの下から覗く常人離れしたその肉の盛り上がりである…
一段と盛り上がった肩の部分のみが小刻みに上下に揺れている…
(何処にいても絵になる男だ…)
八木は 男の端正な横顔を眺めつつ そんな事を考えていた…

『よし!!』

それまで ずっと集中を高めていた男は、気合いの掛け声と供にバーベルの下に潜り込む…

『な、なんだ!あれはっ!』

思わず 八木は驚きの声を上げた!
若き、このボディビル記者を驚かせたのは、その足幅であった…
通常、スクワットの足幅は 肩幅が基本で それよりも広ければワイドスタンス、狭ければナロースタンス と呼ばれている。
そして、体型により個人差は あるものの、普通、ワイドスタンスの方が、より高重量を扱うのには 適していると言われている。

だが、男の足幅は…

爪先こそ 離れているものの、両方の踵、ふくらはぎ、そして太股の内側がピタリと くっつけられていた…
更に 驚く事に その爪先は膝よりも前に位置している…

『無茶だ!』

八木は心の中で叫んだ!
これは、スミスマシンであれば可能なフォームだが、フリーウエイトではバランスが取れない。
このまま しゃがみ込めば バーベルもろとも 後倒し 大怪我をするのは目に見えてあきらかだ…
八木の懸念を余所に男は ゆっくりと慎重にしゃがみ込む…

『ゴクリ!』

思わず八木は唾を飲み込んだ…
男は、太股の裏が ふくらはぎに触れるまでしゃがみ込むと、そのままジワリと立ち上がった…
『す、凄い…』
常識では考えられない このパフォーマンスを男の強靱な足腰と、絶妙なバランス感覚が 可能にしていた…

なんと男は、その動作を連続で12回繰り返した…
その間、少したりとも身体が後傾する気配はない…
(なんという男だ…)

゛トレーニングは何処ででも出来ますから。゛

Sトレーニングジムを辞める際、最後に彼はそう言ったという…
一見、負け惜しみとも聞き取れる この言葉を彼は 飽くなき探求心と、反骨心で証明しようとしていた…
っと、男と目と目がぶつかった…

『どうも、ご無沙汰してます…』
『あ、八木さん!よくここが分かりましたね!』

いつもと変わらぬ爽やかな笑顔で男が言った…

『はい、いろいろと探しました。』
『あと少しで終わるから、もうちょっと待ってて貰えます?』
『あ、どうぞ遠慮なく続けて下さい。』



数十分後、二人は体育館の水呑み場にある 長椅子に腰掛けていた…

改めて男の差し出す手を、八木が握り返す…

『随分と寂しい所でやっているんですね。』
『いや、これでも午前中はお年寄りが沢山いるし、夕方になると、学校や仕事帰りの人達が押しかけて来 るから、
ちょうど この時間帯が一番空いているんですよ。』
『練習 見させて貰いました。凄いですね。』
『あぁ、今日が 大会前 最後の脚の日ですからね、かなり気合い入れました。』

照れくさそうに男が答えた…

『調子 良さそうですね。仕上がりはどうですか?』
『2週間前の吉岡修司を見たら 改めて気持ちが入りました。ハッキリ言って過去最高の仕上がりです。
それもこれも八木さんの協力のお陰です。』

男は おどける様にペコリと頭を下げた…

『その事なんですが…』

八木は 表情を曇らせつつ言った。

『本当に、これで良かったのでしょうか?後悔していませんか?』

『八木さん、ハッキリ言って後悔するかどうかは、まだ分かりません。でも ひとつだけ言える事は、
あのままでは 絶対に今年のこの身体は作る事は出来なかったと思ってます。』

『………』

『それと もうひとつ 俺は ここで数多くの貴重な体験をさせて貰ってます。例えば さっきエアロバイクを漕いでいた井上さん。
あの老人は最初 自力で懸垂が1回も出来なかった。それが今では 軽く補助を入れただけで5回は出来る。こういう事が凄く嬉しいんです。
これは決してSトレーニングジムでパーソナルトレーナーをやっていた時には得られなかった感覚です。』


本城剛…


この男、とてつもなくデカくなっている…

その肉体は もちろんの事、人間としての暈が…器が…
この男を倒す事は、並大抵では出来ない…

何故なら、ステージ上で最後の最後に明暗を分けるのは そういう部分だという事を、八木は今迄の経験上、 肌で感じていたからだ…



運命の日は、もう3日後に迫っていた…





※主な登場人物

吉岡修司…この物語の主人公、3年前 日本クラス別選手権において宮本護に敗れ、その後 護の死にショックを受け
       ボディービル界から姿を消していたが今年復活。

宮本護…修司の宿命のライバル。アジア選手権優勝後、妻と供に交通事故死。伝説のボディービルダーとなる。

太田新一…修司の幼馴染みであり、修司の働く運送会社の社長。

大河実…修司、護の大学の先輩。『大河マジック』の異名を持つ 現アジアライト級チャンピオン。

小内英雄…去年遂に日本ボディービル選手権15連覇を達成したキング、オブ、ボディービルダー

本城剛…日の出の勢いで躍進するイケメンビルダー。吉岡修司と宮本護の熱い闘いを見て覚醒。
      護を彷彿させる身体を有している。

八木道夫…『月刊マッスルマガジン』の編集者。