boomerさんのボディビル小説

ライバル達の唄・最終決戦

第二章

台風が近付いて来ていた…


天気予報によると、明日の朝には、首都圏も暴風域に突入する見込みらしい…
否、正確にはもう今日の朝と言うべきか…
時計は既に午前0時をまわっていた…


都内にあるWジムの地下駐車場…


ポツンと停められた車の中で一人の男が食事をしていた…
極端に肩幅の広い男である。
著しく、頬がこけている…
その顔には極度の疲労の色が伺える…


男は何やらの缶詰の中身を、フォークで口に運んでいた…
缶のパッケージには、マグロらしき魚の絵が印刷されている…
2度程口に運んだだけで、缶の中身は空になった…
まだ、前の物が口の中に残っているうちに、次の缶のプルトップを開ける…
男は立て続けに4缶を口の中に放り込んだ…
口の中に溜ったモサモサとした物をミネラルウォーターで流し込む…

そして…

最後に、真っ赤に熟したトマトに、無我夢中でむさぼりつく…
トマトの僅かな甘味で身体中がとろけそうになる…


ただそれだけの簡単な食事であった…
極めて質素な食事であった…
もはや、これは餌と呼ぶべき物なのかもしれない…
そんな内容の食事であった…

『フゥー!』

男は大きく溜め息をつくと、そのままアクセルを踏み込み車を発進させる…


強い風雨の中を家路へと向かう…

一日の中で 最もホッとする時間だ…

男が唯一 自分と向き合える時間…


『あと、一週間か…』

誰ともなくポツリと呟く…

自分自身の心と身体を限界まで苛め抜いた一年間…

それが あと一週間で終わろうとしていた…

現アジアライト級王者 大河実…

現役生活22年間…

最後の一週間であった…






大河実がM市にある自宅に辿り着いた時には、既に午前1時を過ぎていた…



彼には 妻と小学生の息子が2人いる…
しかし、今年に入ってから3人には 妻の実家の方に帰ってもらっている…
別に夫婦不仲という訳ではない…
話し合っての結果だった…
今年の日本選手権においてベストな成績を残す…
その為に 妻は夫に対して何をしてあげられるのか…?

その答えが、夫を一人にしてあげる事であった…
一人で誰にも気兼ねする事なく、一切の妥協なく闘える環境作り…
妻の、家族の、愛情を感じる…
もちろん、これは22年間の選手生活に於いて初の試みである…


部屋に入るなり、リビングのソファーに横臥する…
既にシャワーはジムで浴びて来ている。
今日も このまま眠りに付く事になるだろう…
最近は いつも このパターンだ…


大河は都内の大手スポーツ用品メーカーに勤務していた…
朝8時半の始業時間に間に合わせる為には、5時過ぎには起きなければならない…
どんなに調整が辛くとも 絶対に仕事に持ち越さない…
彼が長年守り続けた拘りでありプライドでもあった…


激しい雨風が容赦なく窓を打ちつける…
身体は極限に疲労している筈なのに 目が冴えて眠れない…

ふと棚の上に所狭しと並べられたトロフィーに目をやる…
物凄い数のトロフィーである。
見ているだけで、壮観な数である…
その、ひとつひとつにかけがえの無い想いと愛着を感じている…

学生大会に始まり、県大会、ブロック大会、ジャパンオープン、社会人、日本クラス別…
並べられた全てが第一位の物である…
その中で一際大きく、燦然と輝くトロフィー…
プレート部分には


゛200X ASIAN BODYBUILDING CHAMPIONSHIPS゛


と記されている…

今、日本で このトロフィーを持つ現役選手は彼しかいない…

゛アジアの巨星…シンガポールのサイモン.チェア゛

難攻不落と言われる、この偉大なチャンピオンを倒してのタイトル獲得であった…
過去3度の銀メダルを乗り越えての悲願達成であった…

゛もう これで満足だろう…゛

゛もう これで何も思い残す事は無いだろう…゛

゛もう これで心置きなくステージを去る事が出来るだろう…゛


゛否゛


整然と並べられた、それらの中で唯一足りない物がある…

日本ボディビル選手権の優勝トロフィー…

この15年間、彼の野望を阻み続けた男の顔が目に浮かぶ…

現日本王者 小内英雄…



それは現役生活最後の忘れ物であった…





思えば28歳の時からずっと 日本選手権に挑み続けている…



そのうち欠場した年が一度だけ…
3年前、愛弟子の宮本護と姪の美奈子を一度に亡くした あの年のみである…

彼が出場した14回全て同じ人物が優勝している…
それが、キング・オブ・ボディビルダー゛小内英雄゛であった…
ちなみに その間の彼の戦績は2位9回、3位3回、それ以下が2回…

゛大河実は小内英雄に絶対に勝てない…゛

いつしか世間の評価は そう固まっていった…
しかし大河本人は決して そうは思っていない…
これまで 彼は どちらかといえばアジア選手権制覇に力を注いで来た…
通常、日本選手権とアジア選手権は微妙にずれた時期に開催される事が多い…
アジアに100%の状態で出場する為には、どうしても日本選手権は8〜9割の仕上がりで出ざるを得ない…
その状態で勝てる程、日本選手権は、小内英雄は甘くなかった…

"完璧に仕上げた状態ならば、俺は決して小内に劣ってはいない…"

事実、階級こそ違えアジアでの評価は 小内よりも大河の方が上である…

完璧に仕上げた状態…

つまり 去年 アジアを獲った仕上がりで、最後の最後に小内と闘ってみたい…
その想いが 彼の引退を一年長引かせる事となった…


そして…


今までに勝てなかった相手全てにリベンジを果たして引退をする…
去年、初めてサイモン・チェアを破った時から、その欲望が彼の身体を焦がし始めていた…
大河実が勝てなかった男達…

小内英雄、宮本護、そして吉岡修司…

3年前の日本クラス別において、大河は宮本、吉岡と闘っている…

壮絶なの闘いであった…

日本ボディビル史上に残る死闘…

今でも、あの闘いをそう呼ぶ者も多い…

結果、1位宮本、2位大河、3位吉岡…

うち、宮本護は既に大河の永遠に手の届かない場所にいる…



吉岡修司…



まさかあの男が、自分の中で ここまで大きな存在になろうとは…

3年前の闘い…

俺が2位で修司は3位だった…

しかし…

あれは完全に自分の負けていた闘いだった…

日本クラス別70キロ級…
絶対王者の俺と、無名の修司…
最終的に この微妙な心理が審査員に影響を及ぼし、何とか俺の方が上にいけた…
ただ それだけの事だ…

もしもジャッジが俺自身だったならば、順位は入れ替わっていた…

そして、俺がこの世で唯一信じる物…

それは自分自身の目のみだ…




奴と…否 奴等と初めて出会ったのは、もう十年以上も昔の事だ…




母校 K大学ボディビル部の夏合宿…
OBとして参加した俺の前に紹介された その年の生き残り新入部員2名…
ひょろひょろに痩せた男と、無愛想でゴツゴツとした男…



それが宮本護と吉岡修司だった…





その少年の背中を見た瞬間、俺の中で戦慄が疾った!



大学1年生…既に18歳は過ぎている筈だ!
しかし 彼の身体は少年と呼ぶに相応しい程、弱々しさが残っていた…
170cmを超える身長にも拘らず どう見ても50kgにも満たない身体…
上半身裸で必死に懸垂運動をする 少年の腕、脚は柳の枝の様に細々としている…

しかし…

その背中が 俺の目を魅き付けて離さなかった…
腰の付根から見事に付着している、まだまだ未熟過ぎる広背筋…


あの頃の俺は、週末の度にゲストポーザーとして、日本中のコンテスト会場を巡る日々を送ってた…
全国で 沢山のボディビルダー達を見て来た…
しかし、少年程 理想的な位置から広背筋が伸びている選手を見た事が無い…
日本選手権の否、アジアの会場でさえ、滅多に存在しないだろう…
更に 極端に長い鎖骨に 小さ過ぎる頭部…
筋肉の質も文句無く素晴らしい…

゛本気でこの少年を育ててみたい!゛

いつしか俺は 自力で懸垂を3回も出来ない、このひ弱な少年に、限り無い可能性を夢見ていた…


その少年が宮本護だった…


しかし 他のOB達は もう一方の新入部員の方に目を掛けていた…

当然だろう…

中学、高校とずっと水泳を続けていたという彼は 新入部員離れをした身体をしていた…
練習態度も真面目で、どんなに追い込まれても挫けないガッツもあった…

しかし…

哀しいかな、吉岡修司と名乗る その無愛想な新入部員には、微塵の素質も感じられなかった…

胴長で太いウエスト…
その割には狭い肩幅に大きな頭部…
何よりも 広背筋の付き位置が上過ぎるのが致命的だ…
良いのは脚くらいだっただろうか…

このまま 真面目にトレーニングを続けていれば、あるいは将来、県大会のタイトル位は獲れるかもしれない…
しかし、所詮はそこまでの選手だ…
残酷だが ボディビルは素質のスポーツだ…
そして 俺は素質の無い奴に興味は無い…



俺は 徹底的に護を鍛え抜いた…
俺の持っている 全知識、経験を全て護に注ぎ込んだ…
将来、彼は俺の後継者として日本はおろかアジアのボディビル界をも背負って立つ男になってくれるであろう…

俺の目に狂いは無かった…
護は ぐんぐんと頭角を現わして行った…
同期の吉岡修司を あっという間に抜き去ると、3年生にして早くも学生大会の優勝候補に名を連ねた…
しかし、俺は護に決して無理な減量をさせなかった…

『もっとデカくなれ!学生大会ごときに捉らわれるな!ずっと先を見ろ!』
常に口を酸っぱくして言い続けた…

結局、護は学生のタイトルを獲る事なく卒業した…
それは俺の計算通りの事だった…


吉岡修司は 目の色を変えて そんな宮本護を追い続けた…
それは、大学を卒業し、社会人になってからも続いていた…
毎回、死に物狂いで仕上げて来る…
しかし、どんなに頑張っても 余力充分の宮本護に敵わない…
そんな吉岡修司が滑稽で哀れだった…




3年前、ついに宮本護は俺と同じステージまで辿り着いた…

日本クラス別70キロ級…

俺は初めての師弟対決に胸を踊らせた…

一体、何処まで成長しているのか…?

一体、何処まで俺を苦しめる事が出来るのか…?

一体、何処まで世間に衝撃を与える事が出来るのか…?

そして…

何と 宮本護を追って吉岡修司も、このコンテストにエントリーして来た…
それも良いだろう…
『その昔、俺は日本クラス別に出た事があるんだ。』
将来、引退した時の良い思い出作りが出来たじゃないか…


あの日の宮本護を見た瞬間、俺は驚きを通り越し感動すら覚えた…

嗚呼、何という事だ…

神よ…私は とんでもない作品を作り上げてしまったのかもしれない…

アジアに否、世界にも通ずる逸材が、今まさに覚醒しようとしている…



そして…



ステージで俺の左横二人目に立つ選手を見た瞬間…
更に激しい衝撃が俺を襲った…



最初は 微塵の素質も感じなかった…

どんなに頑張っても県大会優勝が限界だろう…

ボディビルは素質のスポーツだ…

そして俺は 素質の無い奴に興味は無い…



宮本護という天才に呼応して 吉岡修司という野獣もまた、今まさに覚醒しようとしていた…






いつの間にか 眠ってしまっていたらしい…



久しぶりに昔の夢を見てしまった…
時計の針は 既に午前3時をまわっている…
大河実は 大きく伸びをすると、枕元のミネラルウォーターで喉を潤した…

それにしても…

吉岡修司…


大河実の22年間の選手生活の中で 唯一の読み違い…
まさか、あの男が ここまで来るとは夢にも思わなかった…

素質…才能…

未だに 修司に 人並み以上の、それがあったとは思っていない…

しかし…

゛どうやら俺は大きな見落としをしていたみたいだ…゛
吉岡修司は常人離れした強い、゛ある物゛を持っていたのだ…
そして、その事に関して、彼程の天才は、まず存在しない…

意思、信念、情熱、忍耐力…



思えば新入生の時から異常とも言える精神力を持った若者だったという…

K大学ボディビル部には、伝統となっている新入部員の歓迎儀式がある…
新入部員それぞれに体重の約半分の重量を担がせて 延々とスクワットを続けさせるのだ…
ゴールデンウィークも終わった頃に、突然 新入部員全員を集めて、これをやらせる…

筋肉を付ける事が目的のメニューではない…
どこまで苦痛に耐え抜く事が出来るのか…
どこまで己に打ち勝つ事が出来るのか…
そんな事を試す儀式である…
思えば馬鹿げた儀式である…


ほとんどの者が50回から60回程で力尽きる…
力尽きて倒れた者を、無理やり引きずり起こし、また続けさせる…
その地獄が延々と続く…

毎年 この翌日には 半分以上の新入部員が辞めていく…

ちなみに それまでの部の記録が 断トツで大河実が新入生の時に打ちたてた230回であった…

この年、最初に音を上げたのが、やはり運動経験ゼロの宮本護であったという…
その回数、僅かに30回…
遠慮なく先輩部員達の怒号が飛び交う…
やがて、他の新入部員達もバタバタと潰れて行く中、ただ一人だけ延々とそれを繰り返した男がいたという…

その男が吉岡修司であった…

200回を超えた頃には、顔は青ざめ、太股はプルプルと震えだす…
それでも男は止めなかったという…

ゼイゼイゼイゼイ…

激しい息遣いは やがて悲鳴に変わり、そして嗚咽となる…
大量の汗が吹き出し、目からは大粒の涙がこぼれ落ち、鼻水までもが垂れて来る…
それでも男は脚の上下運動を止めない…
回数は 既に大河の230回を大きく超えていた…
とうとう その場で嘔吐してしまう…
それでも男は止めようとはしない…

『もう良い!』
堪り兼ねて声を掛けたのが、当時の主将、松本だった…
それでも男は止まらない…
『死んでしまうぞ!』
先輩部員達が、無理やり止めさせる…
なんと、それでもまだ スクワットを続ようとするその男は、既に失神していたという…


大河は 後日この話を松本から聞いた…
『相当に面白い話だな…』
昔から、話に尾ひれを付けて話すのが得意な後輩だった…


しかし…


今の奴を見れば あながち 大袈裟な作り話とは思えなくなる…
素質という 大きな壁をその強靱な精神力で打ち破った修司ならば…


そして…


3週間前、久しぶりにステージ上の吉岡修司を見た…

まだまだ仕上がりは甘いが、その肉体は更に進化していた…

3年前覚醒を始めた野獣は、完全なまでに目を覚ましていた…

否、それどころか、更に凶暴な牙を磨いていた…

あれが一度はセミリタイアした男の身体だろうか…

あれが何年もブランクのある男の身体だろうか…

まさに常識を超えた男である…

奇跡とも呼べる 強い信念を持った男である…



゛野獣゛吉岡修司と、゛巨人゛小内英雄…


最後の最後に、彼等を倒して 真の日本一を勝ち取らなければならない…

゛果たして お前に それが出来るのか…?゛

゛Yes,出来るさ!去年、あのサイモン・チェアを破った 仕上がりならば…゛

しかし…

1ミリの誤差も許されない…
まさに ミクロの闘いである…

その為に、大河は この1年間 ずっと あの仕上がりを維持して来た…
なんと 去年のアジア大会 直前1週間の食事メニューで、この1年間を過ごして来たのだ…

大会1週間前の食事…
油は もちろんの事、塩分をも完全にカットする…
塩分だけではない…
甘味、辛味、酸味、苦味、旨味…
全ての味覚を拒絶した…

家にある調味料は全て破棄した…
この1年間で味がある物を食べたのは、元旦の雑煮のみだ…
それとて、極めて薄い味付けだった…

毎日、茹でたパサパサの鳥肉をそのまま食べた…

毎日、大量の卵の白身のみを、生のまま飲んだ…

納豆や豆腐にさえも、一滴の醤油もかけずに食べた…

ただ トマトの僅かな甘みのみが 心の拠り所となっていた…

そんな生活を1年間続けた…

無茶な戦略である…

現役最後の1年だからこそ とれた戦略である…

その後の選手生活を考える必要が無いからこそ とれた戦略である…

気がつくと夜中、無意識に空っぽの冷蔵庫を開けて、食べ物を探している自分に驚いた事もあった…

身体中が痙攣を起こし生命の危険を感じた事もあった…

何度も気が狂いそうになった…

大河実という鋼の男だからこそ とれた戦略であった…


小内英雄に勝ちたい…


吉岡修司に勝ちたい…


身を焦がす程の熱い思いがあったからこそ とれた戦略であった…



そして…



自分自身の心と身体を限界まで苛め抜いた一年間…


それが あと一週間で終わろうとしていた…






※主な登場人物

吉岡修司…この物語の主人公、3年前 日本クラス別選手権において宮本護に敗れ、その後 護の死にショックを受け
       ボディービル界から姿を消すが今年復活。

宮本護…修司の宿命のライバル。アジア選手権優勝後、妻と供に交通事故死。伝説のボディービルダーとなる。

太田新一…修司の幼馴染みであり、修司の働く運送会社の社長。

大河実…修司、護の大学の先輩。『大河マジック』の異名を持つ 現アジアライト級チャンピオン。
      今年の日本選手権を最後に引退を表明。

小内英雄…去年遂に日本ボディービル選手権15連覇を達成したキング、オブ、ボディービルダー

本城剛…日の出の勢いで躍進するイケメンビルダー。吉岡修司と宮本護の熱い闘いを見て覚醒。
      護を彷彿させる身体を有している。

八木道夫…『月刊マッスルマガジン』の編集者。