boomerさんのボディビル小説

ライバル達の唄ファイナル…死闘編

第三章

『さぁ、ここからだ…』

ステージから 遥か離れた後方、会場の全てを見渡せる座席に二人の男が腰掛けている…

三十代前半の男と、五十代後半の男…

若い方の男はベースボールキャップを真深に被っている…
かなり大柄な男である…
座っていて分からないが おそらく身長185cm以上はありそうだ…
肩幅も相当に広く、がっしりとしている…
人並み以上の巨体を窮屈そうに折り曲げ舞台の方を見つめている…

一方、年配の男の方は 二回り程小柄だ…
どちらかと言えば痩せ型で、白髪まじりの頭髪はボサボサに乱れている…
彼の方は、まるでお目当ての連続アニメを見る幼児の様に、ぐっと身を乗り出し舞台を凝視している…
眼鏡の奥から 選手達を見つめるその目付きは 明らかに隣の男とも、他の観客達とも違っている…

新しい研究材料を見つけた学者の目…

あるいは興味深い患者を診る医師の目である…

男の名は゛丈夫義文゛…
日本スポーツ医学の権威…
神の手を持つと言われる男である…
これまでに 何人ものスポーツ選手の寿命を、その手で伸ばして来た…
隣の若い男も ゛その手゛により 選手寿命を伸ばされたアスリートの一人である…

゛清田和博゛…

東京ジャイアンツの四番打者である…

たまたまの関西遠征…
この台風でナイターが中止になった事もあり、恩人 丈夫と供に この日本ボディビル選手権の観戦に訪れた…

昨年オフ 清田は丈夫の執刀で古傷の両膝の手術に踏み切った…
その後のリハビリを支えたのが、日本王者の小内英雄だった…
二人の恩人のおかげで、今年見事に完全復活…
現在セントラル・リーグのホームランダービー、トップを独走中である…

今年の8月、その恩人小内が、トレーニング中に右上腕二頭筋断絶という大怪我を負った…

清田は そんな小内を、丈夫に紹介した…
誰かの紹介でも無ければ、丈夫の診察を受けるまでに2、3年は待たなければならない…

結果、小内の上腕二頭筋は、神の手により見事に繋ぎ合わさった…
まさに 天才丈夫義文だからこそ 成功を収める事が出来た手術である…

しかし…

小内にとっての本当の試練は そこからであった…
右腕は手術により 日常生活に差し支えが無い程までに回復したものの、大会前のハードなトレーニングをこなす事は
とても無理だった…
何せ、術箇所の筋力は著しく低下し、僅か1Kgの重りでさえ満足に動かせない程になっていた…

本番までに残された時間は 僅かに2ヶ月弱…

上半身のトレーニングは 一切出来なかった…
否、下半身でさえ 踏ん張る時に 腕に負担が掛かってしまう…

゛私のゴーサインが出るまでは、絶対に無理しない事…゛

それが術前の丈夫との約束だった…

大会前、ライバル達が最終調整に没頭している頃、王者小内に出来る事といえば、有酸素運動と、踏ん張らない程度の
脚のトレーニング…
更に、初心者の女性がやる様な 軽い軽い上半身のトレーニングのみであった…

焦燥の毎日が続いた…
周りからは 棄権を勧める声があがった…
しかし 彼は あきらめなかった…
王者小内にとって、棄権イコール引退を意味している…

そんな 小内を、丈夫は全身全霊を掛けて支えた…
お金では 決して動かない 超多忙なこの男が、王者の 闘う姿勢に激しく心を打たれたのだ…

これまで幾人ものアスリートを診て来た…

これまで幾人ものアスリートを救って来た…

しかしかつて、ボディビル界の巨人とまで言われる この王者程、驚異的な回復力を持った人間を見た事がなかった…

彼の肉体は 丈夫の常識を遥かに凌駕していた…

更に どんな逆境にも耐えうる 類いまれな精神力…

最初は その驚異的な肉体に興味を持っただけに過ぎなかった…

しかし、いつしか小内の復活をサポートする事こそが 彼にとっての最重要課題となっていた…

゛フロント・ダブルバイセップス゛

司会者のコールに合わせて、ファーストコールの5人が、一斉に上腕二頭筋を強調するポーズをとる…
そんな中、他の4選手のよりも わざとワンテンポ程遅らせてポーズをとる、ゼッケン38番の選手…
これぞ誰にも侵す事の出来ない王者の貫禄、威厳である…

まさに威風堂々…

唯我独尊…

現日本王者、小内英雄の風格だ…

日本選手権に於いて 当たり前の様に ステージに立ち、当たり前の様にファーストコールを争う現王者…

この15年間 ずっと見慣れた光景である…

しかし その影で 彼の血の滲む様な努力と執念が、神の手を持つ男でさえ 驚愕させる程の奇跡を、呼び起こした事を
ほとんどの人間が知らない…

『小内さん、バッチリじゃないですか!さすがに 博士です。またまた奇跡を起こしましたね。』

隣で清田が感慨深げに声をあげた…

゛奇跡か…゛

゛しかし今回のは これまでと、少しばかりニュアンスが違うな…゛

気の遠くなる様な復活劇…
正直、丈夫自身 何度も諦めかけた…
もしも患者が小内英雄でなければ、この奇跡は起こらなかった気がする…
あるいは、執刀医が自分でなくとも、患者がこの男ならば、それは起こっていた気もする…

果たして、他の4選手と比べて、小内の状態はどうなのか?
丈夫に、はっきりとしたボディビルの審査基準は分からない…
しかし、ステージ上の小内から伝わって来る 誇り高きオーラは明らかに 他の選手を押さえ込んでいる様に見える…

彼は、込み上げる感動に うち震えていた…



贔屓目なしに見ても 今日の出来は過去最高ではないか!…

彼女も元コンテストビルダーである…
かつてはミス日本に於いて、6位にまで登り詰めた経験がある…
12年前に同じコンテストビルダーである夫と結婚…
長男を出産後、一時期カムバックしたものの6年前、次男の妊娠を期に完全に現役を引退…
その後は、ずっと夫を影で支えている…
彼女の見る目は実に的確である…
過去に何度か調整段階での、細かなアドバイスで、夫を勝利に導いた事もある…
そんな彼女から見ても今日の夫は最高である…
去年、韓国釜山で見た アジアを獲った゛あの仕上がり゛さえも 完全に凌駕している…
ファーストコールの5人の中でも、一番仕上がって見えるのは、決して身内贔屓だからではないだろう…

゛来年の日本選手権を最後に現役を引退したい…゛

突然夫に そう打ち明けられたのは、去年の12月の事だった…
夫の決意は固かった…

二人で話し合い 彼女は年明けと共に 子供達を連れて実家に帰る事となった…

゛どうしても最後に日本のタイトルを獲りたい…゛

゛全てを忘れて最後のコンテストにフォーカスしたい。゛

夫の強い要望だった…
彼がここまで真剣に頼み事をするのは初めての事だった…

彼女の両親は そんな夫を強く罵った…

しかし 彼女には、夫の決意が、心境が痛い程分かった…
彼女もまた かつて命を削る様なギリギリの闘いを何度も経験して来たのだ…
それで 夫が最後の闘いを悔いなく出来るのであれば、本望である…
夫の悲願は、妻の念願でもあるのだ…

゛最後に3人で 大阪まで見に来て欲しい…゛

夫から そう電話があったのが 1週間前の事だった…
長い選手生活の中で、こんな事は初めてであった…
彼女は、この電話を心から喜んだ…
子供達は 未だボディビルダーとしての父親の偉大さを知らない…

二人の子供を連れてロビーをウロウロしていたら不意に声を掛けられた…

『ゆみさん、お久しぶりです。』

声の主は、現日本女子王者 飯田恵子だった…
彼女とは その昔 同じジムで一緒に汗を流した仲だ…

『あ!久しぶり〜!今日は頑張ってね!』

今年も女王の座防衛を目論む彼女と とりとめのない お喋りを済ませ、自分達の席に座った…

『ねぇ、ママも結構凄いんだね。』

誰が見ても風格溢れる女王と知り合いの母親を見て、次男の良太が感心した様に呟いた…

゛そうよ。今では家で ただの口うるさいオバサンだけど、昔はママも凄かったんだから。゛

良太は初めて見るコンテスト会場が 珍しいのか さっきからキョロキョロと 辺りを見渡している…
一方 長男の優太は 朝からずっと不機嫌だ…
彼はボディビルダーとしての父親が、あまり好きではなかった…
昔は 男の人は大人になれば 皆 父さんの様な身体になると思ってた…
ある日 友達と行った市営プールで、周りの大人達の裸を見て、初めて僕の父さんが異常なんだと気付いた…
父さんだけじゃない…
僕の家そのものが異常なんだ…
僕には クラスの他の皆の様に、夏休みに 家族で海やキャンプに行った記憶がない…
入学式や誕生日でさえ、外で食事をした記憶もない…
他の友達みたいに、父さんとキャッチボールをした事もない…
母さんは いつも僕達の分と、父さんの分と2つのご飯を作っている…
そして、今年の正月に、お爺ちゃんの所に行ったまま家に帰れない…
父さんとだって、それ以来 一度も会っていない…
きっと父さんは、母さんや僕達の事なんて愛していないんだ…
父さんが愛しているのは、ボディビルだけなんだ…

゛やがて ブザーがなり、大勢の選手が舞台に現れた゛

皆、父さんと同じ様な身体をしている…
小さい頃僕が、大人になれば、皆ああなると思ってた身体の大人達ばかりだ…

でも…

僕は父さんを すぐに見つける事が出来た…
そんな人達の中でも 僕の父さんは、飛び抜けて凄く見えた…
大きくて、強そうで、凄く綺麗だ…
いつも家で見ていた父さんの身体が、ステージの上だと、凄く輝いて見える…
やがて 父さんは、同じ位に 凄い選手達4人と一緒に前に呼ばれた…

゛大河!!゛

沢山の人達が 父さんの名前を叫んでいる…
僕の父さんを一生懸命に応援してくれる人がいっぱいいる…
なんだか、不思議な気がした…
父さん達は、5人で一緒にポーズをとりだした…

『凄い…パパカッコいいなぁ…』

隣りで良太が感心している…

これが父さんなの…?

これが 本当に僕の父さんなの?…

父さんは、この為に毎日頑張ってたの…?

父さんは、この為に毎日自分だけ美味しくない物ばかり食べてたの…?

『優太、良太…』

そんな事を考えていたら 隣で母さんが話し掛けて来た…
母さんは泣いていた…
僕は母さんが泣いているのを初めて見た…

『よく見ておきなさい。パパがあそこに立つのは 今日が最後だから…』

胸がドキンとした…
父さんが ボディビルを辞めてしまう…
何故…?
僕や良太が、我が儘を言ったから?
僕がボディビルが嫌いだって言ったから?
お爺ちゃんが、少しは家族の事も考えろって怒ったから?
お婆ちゃんが、母さんの事が不憫だって言ったから?

『パパはね、最後にどうしても今日のコンテストだけは優勝したいの。ママも今日だけは、絶対にパパに
勝って欲しいの。優太と良太が応援してくれる事が、パパにとって一番の励みになるわ。お願い。二人と
も 一生懸命に応援してあげて…』

『うん、僕応援する!だってパパカッコいいもん!パパ頑張れ!』

良太が大きな声援を送った…
それが 聞こえたのか…父さんが こちらを見て、力強く頷いた気がした…

『優太…』

母さんが すがる様な目付きで僕の事を見た…

僕はボディビルが好きじゃない…

父さんの事も好きじゃない…

本当は大好きだけど好きじゃない…

よく家に遊びに来る 松井のおじさんが

『優太は、父さんと母さんの良い所ばかり受け継いでいるから、きっと将来は凄いボディビルダーになるぞ。』

って言った…
でも父さんは

『自分の息子には こんな苦しい思いさせたくないよ。』

って言っていた…
その時 僕は゛どうして そんなに苦しいのに父さんはボディビルを続けているんだろう?゛って思った…
でも 今日、何となく、それが分かった気がした…

父さんが背中を こっちに向けてポーズをとっている…

゛優太、今迄ごめんな゛

その背中が そう言っているみたいな気がした…

僕は一緒に、海にもキャンプにも行けなくていい…

キャッチボールが出来なくてもいい…

だから…

だから、父さん 辞めないで!

『父さん!頑張れ!!』

僕は いつの間にか そう叫んでいた…

『優太…ありがとう…』

隣で母さんの 呟きが聞こえた…



吉岡修司…

やはり この男は、ただ物ではなかった…

バックステージで その身体を見た瞬間、全身に衝撃が疾った…

いつか必ず、この日が来る事を、信じていた…
そう…3年前、観客席からお前等の闘いを見た あの日からずっと…
本城剛は この時、改めて認識した…
自分の中には、まだまだ眠っているままの物がある…
それが 今まさに覚醒しようとしている…

゛ずっと、こうなる瞬間を待っていた…゛

溢れんばかりの悦びが、血流となり身中を駆け巡っていく…
舞台の上でポーズを決める度に、それらが、全身の筋肉に集まり、ムクムクと膨れ上がっていく…
彼は 思わず゛ニヤリ゛と笑った…
それは 今や彼のトードマークとなっている、゛真夏の向日葵の様な爽やかな笑顔゛などではなかった…

何日も砂漠を彷徨い続け、ようやくオアシスに辿り着いた旅人の微笑み…

あるいは、暫くぶりに 獲物にありついた肉食獣の微笑み…

彼の美しい顔立ちが、更にその微笑みを不気味に見せる…

゛さぁ、心行くまで闘おうでは ないか…゛

゛審査員が 誰に沢山一位票を付けたか…゛

゛そんな 闘いでは ない…゛

゛誰が 一番強烈な光を放てるか…゛

゛誰が 他の全員の光を打ち消す事が出来るか…゛

゛太陽の前では、けっして月は輝けない…゛

゛そんな 闘いだ…゛

激しくぶつかり合うプライド、あるいは肉体の迫力に思わず圧倒される…
これが、宮川敏光にとって初めてのボディビルコンテスト観戦であった…
2年前に、大手自動車メーカーを定年退職…
それ以来、ほぼ毎日の様に 市営体育館のトレーニングルームで汗を流している…
質素なトレーニングルームであった…
ニ昔程前のサーキットマシン…
5キロから20キロまで、5キロ刻みのダンベル…
130キロまで組めるバーベルセット…
僅か3台のエアロバイク…
それらが揃っている程度のトレーニングルームであった…
どちらかといえば、平日の昼間は、老人達の社交場として存在してる様な施設であった…

その青年は ある日突然と そこに現れた…
実に礼儀正しい青年であった…
笑顔の爽やかな青年であった…
目を見張る程の 美しい顔立ちであった…

そして…

それらの内側に、常人離れした肉体を隠し持っていた…

青年は すぐに周りと打ち解けて行った…
いつの間にか、老人達は青年にいろいろとアドバイスを求める様になっていた…
青年は老人達の質問に 嫌な顔ひとつせず、丁寧に答えていた…
例え それが自分のトレーニングの最中であったとしても…

いつの間にか、青年の周りには沢山の老人達が集まった…
青年が現れてから、老人達の表情は格段に明るくなった…
彼の出現でトレーニングルームそのものの雰囲気が変わって行った…
彼には 周りを魅き付ける天性の資質があったのだ…

その青年こそ、本城剛であった…

そんなある日の事、宮川は 偶然に、本屋で゛ボディビルダー本城剛゛を紹介した記事を見つけた…
そこに書かれている 本城剛は、決して先人達に敬意を表さない、ライバル達に尊敬も抱かない最低の人間であった…
スポーツマンの風上にも置けない輩だった…

宮川は 我が目を疑った…
現役時代、長い間 人事の仕事に携わって来た…
人を見る目には、絶対の自信がある…

あの本城に限って これは何かの間違いだ…

今日は、それを確認する為に やって来た…
トレーニング仲間の老人達と供に…



決勝進出者12名が一通りの規定ポーズを取り終え、今まさにファーストコールを迎えようとしていた…
館内では贔屓の選手の名前を叫ぶ声が飛び交う…
そんな中、先程からただ一人 痛烈な野次を浴び続ける選手がいた…
本城剛であった…
彼がステージに登場した時から、それは絶え間なく続いている…
中には本城の人間性 そのものをも 否定する様な野次さえもある…
一緒に観戦している老人達の中には、思わず耳を塞ぐ者までいた…
彼等に とって神様の様に慕う本城に対する誹謗中傷は、何よりも耐え難い物なのだろう…

『やめろ!もう やめるんだ!』

あまりの野次の酷さに 松尾という老人が キレた…
彼は その昔 警察官をしていたという程の正義漢だ…

『コンテストを見に来ている以上、選手に対する声援も大いに結構だろう。だが、君達のは酷過ぎる。
一生懸命に闘っている選手に対する度を超えた野次は、逆に君達自身の人間性をも貶める事に繋がると
言う事を覚えておきたまえ。』

実によく通る声だった…
一点の曇りも無い 堂々とした発言だった…
一瞬、館内が静まり返った…

しかし…

゛誰だ?あの爺さん゛

゛あぁ、何か 本城の応援団らしいぜ。゛

゛なんだ…爺さん、婆さん ばっかりじねーか。゛

゛本城の野郎、あれだけいた女性ファンに相手にされなくなった物だから、年寄りを沢山連れて来たらしいぜ。゛

゛アハハハハハハハ…゛

あちらこちらから、失笑が漏れた…
宮川は 怒りのあまり全身が震えた…
隣で松尾が無念の表情を浮かべている…

本城は…

当の本城剛 本人は…

今のやり取りが、ステージ上の本城にまで伝わっていない筈がない…
しかし 彼は目を閉じたまま じっとファーストコールを待っている…
ここからは その心情までは窺い知れない…

やがて 司会者が 彼を含めた5人の選手のゼッケン番号を読み上げた…

ステージ最前列に歩を進める本城…

その顔からは 先程までの 微笑みはおろか、一切の表情が消え失せていた…



そこに座っているだけで、選手の息遣いが、鼓動が、ダイレクトに伝わって来る…

今年の日本選手権を裁くジャッジ7人が、横一列に並んでいる…
そこからステージまでの距離、僅かに およそ5m…
斜め上から降り注いで来る熱気に、思わず息が詰まりそうになる…

ボディビルという競技は、あくまで主感のスポーツだ…

誰が一番強かったか…

誰が一番速かったか…

そういう はっきりと結果が見える物を競う競技ではない…
ジャッジの感性あるいは、センスが結果を大きく左右する…

更に忘れていけないのは、結果はあくまで審査員席から見た優劣で決まるという事だ…
例え、同じ会場であっても、座る場所によって見え方も随分と変わって来る…
極端な話、どんなに観客席、あるいは記者席から見て優れた身体であっも 審査員席から見て優れていなければ
勝利者には なれない…

よく審査結果に対して 観客席からブーイングが起きる事がある…
それらは、こういった視覚的なギャップが要因となっている場合が多い…

審査員席は ほとんどが、観客席の最前列にある…
つまりジャッジは 下から選手を見上げる形で審査をする…
意外と見落とされがちだが、実は、この事は大きなポイントなのだ…
選手達は そういった事も意識して闘わなければならない…

更に 照明が身体の凹凸を、一番綺麗に見せる立ち場所や、身体の捻り方、傾け方等も重要になって来る…
いわゆる試合巧者と呼ばれる選手達は、瞬時のこういった計算、組み立てに長けている…

ファーストコールの5人の中で、そういったテクニックが抜群に上手いのが、何と言っても、大河実だろう…
゛大河マジック゛という言葉がある様に、彼は10の身体を15にも20にも見せる技を持っている…
更に 百戦錬磨の王者、小内英雄が これに続く…
本城剛も、年々上達して来ている…
逆に 若い猪狩一宏や、実戦経験の浅い吉岡修司は、この辺の駆け引きが、まだまだ甘い…
よって、ジャッジには こういう裏技に惑わされる事なく 純粋に身体の優劣を見極める眼力も必要となってくる…


゛山下一逸゛は迷いに迷っていた…

稀に見る大接戦である…
観客の立場で見れば、こんなに盛り上がる闘いはないだろう…

しかし…

彼等審査員の立場からすると、これ程までに神経を磨り減らす闘いもない…

一昨年までは ずっと予選 決勝と、共に小内英雄に一位票を投じてきた…
しかし、昨年 その仕上がりを重視し、初めて大河実に一位をつけた…

審査員にも それぞれ好みがある…
彼は 7人の審査員の中では どちらかといえば仕上がり重視のジャッジを下す方だ…

今回、仕上がりに関しては 大河が 昨年以上の物を見せている…
おそらく過去最高であろう…
まさに皮一枚の仕上がり、命をも削るカットだ…
しかも これだけ厳しい仕上がりにも関わらず、少したりとも身体全体のサイズが犠牲になっていない…

一方、王者小内は 相変わらず、日本人離れした雄大なスケールを見せている…
仕上がりに関しては、例年と ほぼ同じレベルといった所か…
さすがに、極めて高いレベルで安定している…
そして何よりも、この男の強みは、ただ立っているだけで滲み出て来る王者としての風格だろう…

そんな中、本城剛の状態が 素晴らしい…
大河程 厳しくはないものの 遥かに去年を上回る仕上がりだ…
身体全体のシルエットが美しいだけに、さすがに ここまで仕上げて来ると 非常に舞台映えする…
更に これまでの太陽の様な眩しさから一転して、氷の様に冷めた眼差しが、身体全体に 独特なオーラを醸し出している…
まるで、彼の周りだけ違う空気が流れている様な錯覚さえ覚える…

猪狩一宏も年々 弱点を改善して来ている…
数年前までは、ただデカいだけの選手だったのが、ここ1、2年でしっかりと筋密度を増して来ている…
但し、まだ小内や大河等の百戦錬磨の兵が相手となると辛い部分も残っている…
このレベルまでいくと、身体以外のプラスアルファーの部分も必要となってくるのだ…

最も頭を悩ますのが 初めて見る吉岡修司だ…
一体 この無名選手をどう判断すれば いいものか…?
仕上がりに関しては 間違いなく素晴らしい…
バルクも 隣の猪狩が霞む程の物を持っている…

しかし…

ボディビルという競技の審査基準で見ると 決して綺麗なプロポーションとは言えない…
どちらかといえば、長い胴体に、短い脚、大きな頭部…
広背筋の付き位置が上過ぎる為、腰との間に出来る隙間が 更にそれを助長する…
骨格的に見ても、肩幅も狭く、決して恵まれているとは言えない…
だが そこに、ギュウギュウに質の高い筋肉を詰め込んだ身体は、ある意味 斬新だ…
決して美しくない、武骨な肉体が 何故か、やたらと魅力的に映る…
山下が 今迄に見た事のないタイプのボディビルダーだ…
好き?嫌い?の選択でいくと 間違いなく こういう選手は好きだ…
骨格面の不利を乗り越えて築き上げた筋量の充実ぶりが、この選手の並々ならぬ努力を物語っている…

日本選手権の決勝に残る様な選手は、皆僅か一握りの天才ばかりだ…
その天才達が 想像を絶する程の 努力を重ねて ようやく この舞台に辿り着く…
そんな中 一目でそういう先天的な部分で劣って見える この男が、初出場というハンデを乗り越え ここまで勝ち残って来た…
これは、大いに賞賛するべき事だろう…
更に、独特のこの面構え…
つい、この男が背負って闘っている物を覗いてみたくなる…

゛駄目だ…゛

゛私情や思い入れは禁物だ…゛

゛見たまま…゛

゛あくまで 今日ここで見たままの物を評価するんだ…゛

゛ここまでの過程なんて問題ではない…゛

゛誰が今年の日本王者にふさわしいか…゛

゛それを決める任務は、極めて責任重大だ…゛

゛我々も選手達同様、今この瞬間に命を燃やさなければ…゛

もう一度気を取り直してステージ上を睨む…
目の前で 白紙のままのスコア表が躍っていた…



※主な登場人物

吉岡修司…この物語の主人公、3年前 日本クラス別選手権において宮本護に敗れ、その後 護の死にショックを
       受けボディービル界から姿を消すが今年復活。

宮本護…修司の宿命のライバル。アジア選手権優勝後、妻と供に交通事故死。伝説のボディービルダーとなる。

太田新一…修司の幼馴染みであり、修司の働く運送会社の社長。

大河実…修司、護の大学の先輩。『大河マジック』の異名を持つ 現アジアライト級チャンピオン。今年の日本選手権を
      最後に引退を表明。

小内英雄…去年遂に日本ボディービル選手権15連覇を達成したキング、オブ、ボディービルダー

本城剛…日の出の勢いで躍進するイケメンビルダー。吉岡修司と宮本護の熱い闘いを見て覚醒。護を彷彿させる身体を有している。

八木道夫…『月刊マッスルマガジン』の編集者。

竹内功介…『月刊パンプアップ』のベテラン記者。

丈夫義文…『神の手』の異名を持つ、日本スポーツ医学の権威。

都筑茂雄…小内の前の日本王者。かつて、日本ボディビル史上最高の男と呼ばれた名チャンピオン。

猪狩一宏…次期日本王者の呼び声高い、若手バルク派ビルダー