boomerさんのボディビル小説
ライバル達の唄ファイナル…死闘編

第六章
―遅くなりましたが、優勝おめでとうございます。
゛はい…ありがとうございます。゛
―どうですか…今回の闘いをふり返ってみて?
゛そうですね…とにかく初めての事ばかりで 分からない事だらけだったのですが、ジムの会長さんや、先輩方の
おかげで何とか頑張れました。゛
―優勝されて、ご家族の反応はいかがでしたか?
゛そうですね…母親と弟には とても喜んで貰えました。特に母親には食事面も含めて随分とサポートして貰った
ので、感謝の気持ちでいっぱいです。゛
―お父様はいかがですか?
゛そうですね…実は父親とは、今回の事に関しては、一度も話をしてません。もし話しても『ジュニア選手権ぐらいで浮かれるな!』と怒られそうです。゛
―お父様とは、家でボディビルの話はなさらないのですか?
゛そうですね…父親はあまりに偉大すぎて、逆にめったに 家でそういう話は出来ませんね。゛
―そうですか…ところで次はいよいよ゛アジアジュニア選手権゛となる訳ですが、抱負を聞かせて下さい。
゛そうですね…日本と違って アジアはジュニア世代も充実してるので、一つでも上を目差して頑張りたいです。゛
―是非頑張って下さい…ところで優太選手は、お父様の影響もあって、小さな頃からずっとボディビルに
慣れ親しんでる訳ですが、よろしかったら、その辺の思い出話を聞かせて頂けませんか。
゛そうですね…う〜ん、僕 実はずっとボディビルが大嫌いだったんです…゛
―ほぅ…それは意外な話ですね。その嫌いなボディビルをどうしてまた?
゛そうですね…あれは8年前でした…あの日の事は今でもはっきりと覚えてます…゛
『優太、良太…いよいよ次よ…』
母さんが ずっとステージを見つめたまま そう言った…
『うん!分かった!パパ頑張れ!』
隣で良太が そう叫んだ…
父さんが出て来た…
ステージの隅から、父さんが現れた…
゛おおかわぁ―!゛
゛おおかわさーん!゛
゛さいごに魅せてくれぇ―!゛
沢山の人が 父さんの名前を叫んだ…
父さんは ステージの真ん中で 身体を斜めに向けて 腕組みをした…
顔を下に向け じっと目を閉じている…
音楽が流れ出した…
僕のよく知ってる曲だ…
子供の頃から何度も何度も聞いた曲だ…
父さんは 家にいる時、いつもこの曲でポージングの練習をしていた…
僕は よく そんな父さんに゛ねぇ、遊園地行こうよ。゛、゛キャッチボールしようよ。゛と心の中で話し掛けた…
でも、父さんには、一度もその声が届かなかった…
僕が口に出さないから いけなかったのかな?
きっと そうだったんだ…
でも その頃は ゛この曲のせいで 僕の声が届かないんだ。゛って本気で思っていた…
だから…
大嫌いだった…
この曲が…
ボディビルが…
父さんの事が…
今は…?
分からない…
分からないけど 今日父さんには勝って欲しい…
母さんが喜ぶから…
良太が喜ぶから…
父さんが一生懸命にやっているのを ずっと見て来たから…
父さんが曲に合わせて動く…
流れる様に動く…
小さい頃から 家で何度も何度も見て来た動きだ…
それをステージの上でやると、家とは全く違って見える…
周りのお客さんも、じっと父さんの動きに見とれている…
『凄いね…パパ』
良太が言った…
僕は母さんの方を見た…
だけど…
母さんは前を見ていなかった…
ずっと下を見ていた…
胸の前で手を合わせて ずっと下を見ていた…
いや…下も見ていなかった…
母さんは目を閉じていた…
その目から 沢山の涙が流れていた…
僕が見なきゃ…
僕が最後まで見てあげなきゃ…
母さんが見れないから…
良太じゃ まだ小さ過ぎるから…
だから僕が見なきゃ…
泣いているのは 母さんだけじゃなかった…
他のお客さんも泣いていた…
司会のお姉さんも泣いていた…
つられて良太も泣いていた…
僕は…
僕は泣かなかった…
唇を強く噛んだ…
こうすると 涙が出ないって聞いた事がある…
泣いてる暇はない…
見なきゃ…
見なきゃ…
見なきゃ…
僕は ずっと父さんを見続けた…
瞬きもせずに見続けた…
凄い…
凄い…
凄い…
僕の父さんは凄い…
僕達の父さんは凄い…
父さんからは…
父さんの場所からは、一体何が見えるのかな?…
今度 父さんに聞いてみよう…
でも…
何だか怖いな…
何だか照れるな…
そうだ…
母さんに聞いてみよう…
母さんも 昔゛アレ゛をやってたらしいから…
うん…
母さんになら聞ける…
うん…
そうしよう…
そうしよう…
そうしよう…
自分で確かめるのは?…
大きくなって 自分で確かめるのは どうだろうか…
”優太は、父さんと母さんの良い所ばかり受け継いでいるから、きっと将来は凄いボディビルダーになるぞ。”
急に松井のおじちゃんの言葉を思い出した…
それも 良いかな…
うん…
それも良いかもしれないな…
うん…それが良い…
そうしよう…
そうしよう…
そうしよう…
だから…
よく見とかないとな…
母さんの為じゃなく…
良太の為じゃなく…
僕の゛しょうらい゛の為に…
そんな事を考えていたら父さんのフリーポーズが終わった…
父さんがステージの一番前まで出て来て両手を挙げた…
そして 深々と頭を下げた…
゛おおかわ!おつかれさま!゛
゛おおかわ!ありがとう!゛
゛おおかわぁ!さいこ―!
会場の全員が 立ち上がった…
立ち上がって 父さんに拍手を送った…
物凄い拍手だ…
物凄い拍手が、いつまでも鳴り続いた…
凄い…
凄い…
凄い…
父さんは、やはり凄い…
父さんが僕達の方を指差した…
今度は皆が僕達の方に向かって拍手をくれた…
僕達も立ち上がった…
母さんが泣きながら何度も何度も頭を下げた…
僕と良太も 母さんの真似をして何度も頭を下げた…
皆 父さんが辞めちゃうのが哀しんだね…
皆 父さんが辞めちゃうのが寂しいんだね…
でも…
少しだけ待ってて…
僕が行くから…
今度は僕が行くから…
必ず行くから…
いつまでも鳴りやまない拍手を聞きながら 僕は そんな事を考えていた…
先日、私は偶然入った古本屋で1冊の本を見つけた…
今から5年も昔に出版された本である…
B5サイズのかなり分厚い本である…
表紙に素晴らしい肉体を有した男性のモノクロ写真が使われていた…
背開きには、こう記されている…
『本城剛の真実』…八木道夫著(K出版社)
今年、コンテストビルダーとしてデビューを果たしたばかりの私は、何気なくページを捲り、いつしか
その内容に引き込まれていった…
僕は両親の顔を知りません…
母親は僕を生むと すぐに亡くなりました…
父親は その前から既に いなくなっていたそうです…
僕は祖父に育てられました…
祖父は男手一つで僕を育ててくれました…
厳格な祖父でした…
僕の剛という名前も、゛強い男になれ゛という願いを込めて祖父が名付けてくれたそうです…
しかし 僕は祖父の期待に応える様な強い少年ではありませんでした…
子供の頃から よく女の子と間違われました…
そのせいか いつも苛められました…
よく泣きながら 家に帰りました…
でも 泣いてる事が祖父に見つかると 凄く怒られるので、涙が止まるまで家に入れませんでした…
厳しい祖父でした…
怖い祖父でした…
でも…
とても優しい祖父でした…
僕は、そんな祖父が大好きでした…
怖いけど 好きでした…
今考えると それは尊敬の念だったのかもしれません…
曲がった事の大嫌いな祖父でした…
とても正義感の強い祖父でした…
だから…
あんな事件が起きてしまったのです…
あれは小学6年の事でした…
僕は 祖父に連れられて夏祭りに出かけました…
毎年、屋台や夜店が建ち並び、大きな花火が打ち上がる そんな祭りでした…
僕はこの日が来る事を とても楽しみにしていました…
普段は 厳しい祖父が何故か この日だけは好きな物を、いろいろと買ってくれます…
物凄い人出でした…
人込みで、はぐれない様に 祖父は僕の手を強く握ってくれました…
とても大きくて 温かな掌でした…
僕も祖父の手を強く握り返しました…
祖父と目が合いました…
『うむ…』
そう言って、祖父は優しく微笑んでくれました…
僕は、とても幸せでした…
その時でした…
゛もうやめて下さい!゛
若い女の人の叫び声が聞こえてきました…
声がする方を見ると そこだけ ポッカリと人込みが途切れていました…
その中で若い男の人がお腹を抱えてうずくまっていました…
その男の人を 5、6人の男達が 取り囲んでました…
それを見ながら 若い女の人が泣き叫んでます…
゛お願いします。もう…もうやめて下さい。゛
もう一度 女の人が叫びました…
゛うるせぇー!゛
そう言って、男達が若い男の人を蹴りつけました…
何度も蹴りつけました…
周りの大人達は 見ているだけで 誰も助けようとはしません…
僕は 怖くて まともに見る事も出来ませんでした…
すると…
『剛、ここで待ってなさい。』
そう言って 祖父は 男達の方に向かって行きました…
僕は ドキリ としました…
゛お、お祖父ちゃんやめて…無理しないで…゛
祖父は 男達に何やら注意をしました…
すると…
゛うるせぇ!クソ爺!゛
そう言って 男が祖父を殴りました…
祖父は まるでマネキン人形の様に倒れました…
僕の心臓は、まるで強く掴まれた様に 固まりました…
男達は倒れた 祖父を更に蹴りつけました…
笑いながら蹴りつけました…
その隙に さっきのカップルが逃げてしまいました…
男達は ゛奴等が逃げたのは、お前のせいだ゛と、激しく祖父に怒りをぶつけました…
祖父は殴られ続け、蹴られ続けました…
゛やめて!…やめて下さい!…゛
゛止めて!誰か止めて下さい!…゛
僕は必死で叫びました…
しかし、誰一人として祖父を助ける人は現れませんでした…
男達が祖父を蹴ります…
その度に 祖父の身体が痙攣した様に震えます…
僕は今でも はっきりと覚えてます…
蹴られ続けた祖父の顔を…
蹴り続けた男達の顔を…
逃げたカップルの顔を…
そして…
見て見ぬふりをした大人達の顔を…
祖父ですか?…
結局 その時の怪我が原因で2年後に亡くなりました…
だから…
あの時 控え室で あの話を聞かされた時、僕の中で何かが 音をたてて崩れました…
中略…
実は あの日控え室で ちょっとした事件がありました…
私が誘導の為、選手を呼びに行った時です…
バシャ!と物凄い音がしました…
犯人は本城でした…
彼が折り畳み式椅子を壁にぶつけたのです…
そのまま部屋を飛び出そうとする彼を 皆で必死に止めました…
中略…
アップをしていると 何処からか、その声が聞こえて来ました…
゛おい聞いたか?アンチ本城の連中が、本城の応援の年寄りに危害を加えて大怪我をさせたらしいぜ…゛
僕は 身体中が凍り付く程の衝撃を受けました…
それから先の事は、あまり よく覚えてません…
中略…
゛俺は行かなきゃいけないんだよ…゛
゛あいつらを止めなきゃ…゛
゛止めなきゃ お祖父ちゃんが死んじゃう…゛
゛祖父ちゃん…゛
゛お祖父ちゃん…゛
゛待っててくれ…゛
゛すぐに行くから…゛
゛すぐに行くから…゛
゛すぐに助けに行くから…゛
中略…
゛落ち着け!とにかく落ち着くんだ…゛
小内さんが 必死で本城を押さえてました…
最初は抵抗をしていた彼も 相手が小内さんだと分かると幾分冷静さを取り戻した様でした…
中略…
その時です…
控え室に、フリーポーズを終えたばかりのアイツが戻って来たのです…
奴の無愛想な顔を見て、僕はフッと我に帰る事が出来ました…
”ぶつけてやる!”
全てをこの1分間にぶつけてやる!
僕の中に新たな闘志が沸いて来ました…
中略…
激しい1分間だった…
哀しい1分間だった…
魂が、かきむしられる様な1分間だった…
なんという男だろう…
凄い…
これが 本城剛なのか…
これが 本気の本城剛なのか…
変えやがった…
奴は…
全ての怒りを…
全ての逆境を…
全てを…
この1分間のエネルギーに…
見事だ…
見事だ…
見事だ…
私は仕事を忘れて、すっかり彼の演技に見入ってしまった…
中略…
この日、『日韓親善大会』の為来日していた 後のアジア王者のキム・スン・ヨプ氏は、後日こう語ったという…
舞台に現れた彼を見て私は言葉を無くしました…
彼の身体は、まぎれもなく3年前、私に深い衝撃を与えた゛ミヤモト・マモル゛の生き写しでした…
中略…
大河実は語った…
今迄 闘って来た選手の中でも 宮本護と本城剛は、特別な物を持った選手でした…
分かりやすく言えば神に選ばれし存在だと言っても過言ではないでしょう…
中略…
どんなに嫌われようと、どんなにブーイングを浴びせられ様と彼は私達の太陽でした…
確かに理不尽な暴行を受けましたが、あの日私達は、年甲斐もなく久しぶりに感動しました…
今でも、あの日彼の応援が出来た事を誇りに思ってます…
中略…
ー 本城さんが良かったと思います…
ー 本城さんには感動しました…
ー 今日の本城選手は随分 雰囲気が変わってましたね…
ー 今日 本城選手を見て感じたのですが、彼は本当に周りが言う程酷い人間なんでしょうか?
この日、私は記者席に於いて何人もの人から、こう声を掛けられた…
中略…
以上、これが私の知っている、この年の本城剛の全ての真実である…
彼は見掛けによらず不器用な男である…
本来ならば、全てを投げ捨て自ら悪役となり、闘争心を高める等という方法を誰が思い付くであろうか…
賛否両論もあるだろう…
実際に被害者まで出てしまった…
その点は、私も含めて大いに反省するべきであろう…
しかし…
この日、全てを終えた彼の顔は間違いなく光輝いていた…
素晴らしい本であった…
彼の生い立ちが…
彼の生き様が…
そして…
彼の執念が私の心を鷲掴みにしてはなさなかった…
全てを読み終えた私は 感動のあまり暫く動けなくなっていた…
余談であるが、先日、彼は日本のボディビル界全体が 沸き返る程の歴史的快挙を成し遂げている…
今年2月 ニュヨークで行われた『アイアンマン・プロ・インビーテーショナル』に於いて
゛ビッグ・ツヨシ゛こと本城剛が見事にプロ初優勝を飾ったのだ…
日本人によるIFBBプロ優勝は初の快挙で、同時に彼は世界最高峰のプロコンテスト『Mr.オリンピア』
の出場権を獲得した。
彼のトレーニングパートナーでもあり師匠の元Mr.オリンピア゛ジョン・カトラー氏゛はこう語っている…
『゛ツヨシ゛は類まれな才能を持っていて、それは世界最高のコンテストにおいても充分に通用するだろ。』と…
ここからは、全く下が見えない…
この綱が切れてしまったら、一体自分は何処まで転落するのだろうか…
谷底は全くの暗闇だ…
ただ一つだけはっきりとしている事…
それはもし、今それが起これば、もはや自分は、ただでは済まないという事だ…
こうしているうちにも、俺を吊した命綱の繊維は、みしみしと音をたて、切れ続けている…
もはや俺の体重を支えているのは、切れずに残った僅かな縄の繊維だけだ…
こういう時、人はどうするべきなのだろうか?…
息を潜めて、じっと助けが来るのを待ち続けるか…
無駄にもがけば、確実にその時が早まるだけだ…
ひたすら耐え、助けを待つ…
だが、その保証は何処にもない…
そうなれば、いずれ同じ結果が待っている…
何もしないで縄が切れるのを待つのか…
それとも僅かな可能性を信じて、よじ登って行くのか…
1分間のフリーポーズの中に それは3回繰り込まれている…
゛ダブルバイセップス゛
両腕を 肩の高さまで挙げ そのまま肘を曲げ 力こぶを作るポーズだ…
まず開始早々に、サイドバック…
真ん中やや後半にバック…
そしてフニッシュ直前にフロント…
腕、背中、脚…
全身全ての筋肉の緊張を抜かない様に しなければならないこのポーズで、特に強調される箇所は、二頭筋、
三頭筋の上腕部だ…
当然ながら、その箇所に掛かるストレスも 大きい…
もちろん その他のポーズに於いても そこに掛かる負担が皆無な訳ではない…
しかし 腕に爆弾を抱える彼にとって 最もリスキーなのは やはりこのポーズだろう…
3回…
これを どう乗り切るか…
通常、筋肉は何千、何万という筋繊維が束になって出来ていると言われている…
午前中のプレジャッジの際、それが次から次に 切れていく感触を味わった…
゛右上腕二頭筋゛
つい最近断裂したばかりの箇所だ…
僅か2ヶ月前 彼はトレーニング中に この部分を切った…
しかし…
この絶望的な状況の中 彼は、日本スポーツ医学の権威 丈夫博士の天才的なメスさばきと、己の常人離れした
回復力で奇跡的にこの舞台に戻って来た…
自身16度目の栄光を勝ち取るべき、この舞台に…
しかし…
想像した以上に現実は 厳しかった…
ボディビルの比較審査という極限の状況の中、想像を絶するストレスが彼の上腕を蝕んでいたのだ…
゛今回は何とか 持ち直す事が出来ました。しかし これだけは覚えておいて下さい。今度同じ箇所をやったら、
それで全て゛ジ・エンド゛ですから…゛
最後に丈夫に言われた言葉である…
一体どこまで 持ち堪えてくれるのか?…゛
果たして゛その時゛はいつ訪れるのだろうか?…
いきなり最初のサイドバックの時かもしれない…
あるいは ゛ダブルバイセップス゛以外のポーズをとっている時かもしれない…
あるいは 最後まで持ち堪える事が出来るかもしれない…
確実にとは言えないが 僅かながら その不安を軽くする方法がない訳ではない…
゛ダブルバイセップス゛の部分を全て゛ラットスプレット゛や゛サイドチェスト゛に切り替える…
それだけでも 右腕に掛かる負担は グッと軽くなるだろう…
もし仮に それをやったとしても 違和感を感じる人は ほとんどいない筈だ…
最初は そのつもりでいた…
しかし…
今は違う…
それを やる位なら最初から棄権するべきだ…
゛あそこ゛に立つ以上 俺は俺の全てを出し切るべきだ…
俺は他の奴等とは、立場が違う…
俺は王者だ…
勝とうが負けようが言い訳はしない…
言い訳は 出来ない…
゛あれ゛を やらなかったから俺は勝てなかった…
あるいは…
゛あれ゛をやらなかったから新しい王者が誕生した…
自分の中で そういう想いを残したくない…
最初の゛サイドバックダブルバイ゛を無事クリアした…
良い感じだ…
ぶちぶちと筋繊維の切れる感触も全くない…
駄目だ…
考えるな!
ポーズが縮こまってしまうぞ!
集中しろ!
今は ゛この仕事゛に集中しろ!
後ろ向きになる…
ギューっと一ヶ所に集めたエネルギーを背中全体に込める…
これ以上ない程に 込める…
それを一気に解き放つ様に 腕を挙げ翼を拡げる…
゛バックダブルバイセップス゛
ぐぐ…!
背中を反り 強く腕を曲げて引く…
大丈夫だ!
ここでも その感触は襲って来ない…
もう少しだ…
どうやら僅かばかりに残った命綱は 思ったよりも強く 俺の生命を支えてくれているみたいだ…
助かる…
あと少しだ…
考えるな!
持ち堪えてくれ…
考えるな!
集中しろ…
考えるな!
考えるな!
゛バックダブルバイセップス゛から゛バックスプレット゛へ…
更に 正面を向いて゛マスキュラー゛へ…
そして伸しきった両腕を腹の前でクロスさせ それを一気に曲げながら 両肩の上へ…
゛フロントダブルバイセップス゛
その刹那…
小内は重力の消滅を感じた…
自分を支えていたものが突如なくなり フワリと一瞬宙に浮いた…
そのまま、あっと言う間に、物凄い速度で急降下を始めた…
落ちていく…
何処までも落ちていく…
止まらない…
止まらずに落ちていく…
誰も気付かなかった…
すぐ目の前で見ていた審査員でさえ、それに気付かなかった…
しかし…
この広い会場に僅か2名だけがそれを見ていた…
感じていた…
゛嗚呼…神よ…゛
言い様のない敗北感と無力感が全身を襲う…
゛丈夫義文゛は その瞬間を見届けると、両目を閉じ 天を仰いだ…
『ち、ちょっとオッちゃん何処に行くんだよ!』
゛太田新一゛は 隣で突然立ち上がった゛都筑茂雄゛に強く抗議をした…
『おぉ…ち、ちょっと小便な。』
『なんだよ!もうちょい待てよな。今 小内が済んだから、次の井田が終わったら休憩じゃねぇかよ!』
『悪りー悪りー、もう 我慢出来なくて、漏れちまいそうなんだよ。』
『ったく、もう!ガキじゃないんだからよぉ!』
控え室前のベンチに腰を落とした…
思った程に痛みは無い…
恐る恐る触ってみる…
つい先程まで そこに存在した筈の肉の盛り上がりは 完全に消滅してしまい熱い痺れを残している…
゛終わった…゛
僅かな満足感と、何とも言えない脱力感が胸に 込み上げる…
責任は果たした…
やるべき事はやった…
もう思い残す事はない…
悔いは無い…
きっと…
分からない…
今は 悔いなどない…
しかし夜になると…
明日になると…
1年後には…
分からない…
分からない…
分からない…
っと目の前に 気配を感じた…
見上げた先に 男が立っていた…
懐かしい顔であった…
中肉中背の男だった…
短く刈り込まれた髪にはポツポツと白い物が混じっている…
惚けた顔をしていた…
その惚けた顔が、こちらを見下ろしている…
『つ、都筑さん…』
『よぉ、おまえも馬鹿だなぁ…』
母親の様に優しい口調であった…
目と目が合った…
その目は限り無い優しさに満ち溢れていた…
6
※主な登場人物
吉岡修司…この物語の主人公、3年前 日本クラス別選手権において宮本護に敗れ、その後 護の死にショックを
受けボディービル界から姿を消すが今年復活。
宮本護…修司の宿命のライバル。アジア選手権優勝後、妻と供に交通事故死。伝説のボディービルダーとなる。
太田新一…修司の幼馴染みであり、修司の働く運送会社の社長。
大河実…修司、護の大学の先輩。『大河マジック』の異名を持つ 現アジアライト級チャンピオン。今年の日本選手権を
最後に引退を表明。
小内英雄…去年遂に日本ボディービル選手権15連覇を達成したキング、オブ、ボディービルダー
本城剛…日の出の勢いで躍進するイケメンビルダー。吉岡修司と宮本護の熱い闘いを見て覚醒。護を彷彿させる身体を有している。
八木道夫…『月刊マッスルマガジン』の編集者。
竹内功介…『月刊パンプアップ』のベテラン記者。
丈夫義文…『神の手』の異名を持つ、日本スポーツ医学の権威。
都筑茂雄…小内の前の日本王者。かつて、日本ボディビル史上最高の男と呼ばれた名チャンピオン。
猪狩一宏…次期日本王者の呼び声高い、若手バルク派ビルダー