つかのまの幸福 (4) 嫌でたまらない。 もうやめてと、放してと叫んだつもりなのに、あのひとは笑いながら俺の中に入ってくる。 痛くて苦しくて、息が出来なくて涙も止まらなくてもう気が狂いそうだった。 それなのに身体の感覚と精神が繋がっていない今は、傍からは この行為を悦んでいるようにしか見えない。 長い夜だった。永遠に朝は訪れないかと思うほどに。 目が覚めても手足は鉛のように重い。動かそうと力を入れるだけでも身体中を激痛が走る。 そして、後処理は施されているが体内には異物感が残ったまま。 短い眠りの中、夢を見て思い出す。 逃げようと、もしくは命を落としてもいいと、窓から飛び降りた日のことを。 あの時、迅速に応急措置が行われた為に自分はまだここにいる。 「あの高さから落ちて全身打撲と少しの骨折で済んだのは奇跡だったよ」 もう二度とあのようなチャンスはないよと言われたようなものだった。 それから延々と続く投薬による洗脳で、しばらくは記憶が飛んでいた。 覚えていない期間に一体どのような日々を過ごしていたのか。 それを物語るのは、あのひとを受け入れる事に慣れてしまっていたこの身体。 昨日の耐え難い時間の最中、気持ちと裏腹に身体はずっと疼き、 口は心にもない言葉を吐き続けた。 あのひとが喜ぶことばを。 ゆっくりと慎重に起き上がる。 しんとした室内に人の気配はない。服は着ている。拘束はされていない。 痛みさえ我慢すれば、これは最後のチャンスかもしれない。 こんなにクリアな意識を保てるのは久し振りだった。いつも霧の中に佇む様な、 掴みどころのない空間を彷徨っていたような気がする。 このまま殺されるのを待つだけならば、自らの手でこれ以上苦しまずに逝く 何らかの方法を見つけられるかもしれない。 鉄格子付きの窓は諦めて、ドアに向かう。 一歩一歩が針の上を歩くような痛みで、溢れる涙を拭きながらノブを回す。 そして、今まではあのひとが訪れるのを待つだけだった部屋からの脱出。 廊下にも見張りはいない。 …あの部屋には入れるのかな? 立派な重そうなドアに向かい、手を伸ばした。 「行動と言葉は自分の考えと逆に表れる」 「ふうん、あんなにオレを求めていたのは、指一本触れて欲しくなかったって意味か。 そりゃもう凄かったんだけど、昨夜は」 「悦んで自分から腰振ってたって?そりゃ頭ん中は死にそうに辛かったろうな」 ハヤトの状態を聞こうと呼んだシャマルは事も無げにそう告げ、 自分は朝一で片付けなければならない仕事をやっつけながら話を聞く。 「おとなしく言うことを聞くように躾けるのが無理なら、 それを逆手に取ってみようと思ったんだが。読みは大当たりだった訳か」 「流石シャマルの薬だね。洗脳とは少し違ってて、でも相当きついよね。 そういえば記憶はもう戻らないの?」 「麻薬ほど酷くはないがな。常習性は無いから止めれば効き目はおさまるし、 ほっとけば記憶は戻ってくる。だけどこのままがよけりゃ、ずっと薬漬けだ。 …それにしても仕事、溜まってねぇな」 「オレの有能な右腕と懐刀が、処理出来る事は全て済ましてくれていたからね。 ここにあるのは最終確認分だけだよ」 これ位なら午前中には終わるな。そう思った矢先、銃声がした。 「あ、起きたかな。これなら記憶も…」 「なんだ?」 「いや、ちょっと席を外すけどすぐ戻る。ここで待ってて」 訝しがるシャマルを残して、執務室を後にした。 頭に銃口を当てて、引き金を引いた。 …はずなのに…。 「なんで、弾…が?」 反動で倒れ込んだだけで、傷ひとつない自分にしまったと思った。 「まさか護身用で空砲だとは思わなかった?」 背後からの声に背筋が凍る。 「逃げられなければ死を選ぶ。君の考えそうな事だよね」 床に倒れたままの自分の目の前に、磨き上げられた上質の靴が回り込む。 視線を上げると優しい微笑みのあのひとが、 スーツの胸元からゆっくりと銃を取り出すところだった。 「そんなにオレが嫌?」 屈み込み、火を噴く金属の口が向けられたのは大きく見開いた自分の左目。 「引き出しからそれを見つけた時は嬉しかった?」 その声の方が嬉しそうだ。 「助けてと言うなら殺してあげるのに。 でも死にたがってる子の希望を叶えるわけにはいかないな」 僅かな望みが大きな絶望に変わる。 道は断たれた。 自分の生死さえも全て、このひとの手に委ねられる。 「シャマル先生のお薬の時間だよ。君を幸せな気分にさせてくれる大事なクスリ。 意識がない時は点滴で、ある時は食事に混ぜて摂取していたんだってね。 でも耐性がついたかな?今度はもう少し投薬量を増やさないとだめかもね」 そして続けていかないと覚醒してしまう。 「また笑ってオレに抱かれなよ。大好きって言いながら、 深いところで繋がりあって、泣いて悦ぶ姿をもっと見せてよ」 「…ちがう、幸せ…ない、くるしい…」 「ハヤトの気持ちなんかどうだっていいよ。オレの為に、 オレが望む言葉と態度を見せてくれればいいんだ。…昨日は最高だったよ」 「あんなの…もう無理…」 「だから、これ。自分で飲めるよね?」 抱き起こされて手渡される、小瓶に入った透明な液体。 それをゆっくりと傾け、そのまま床にこぼした。 焦点が合わない。 頭の芯が痺れる。 …いま、じぶんはなにをした…? 空になった瓶を見つめ、自分の内側から何かが壊れてゆく音を聞く。 「いらない…これも…なんにも…わからない」 「人格崩壊が副作用なんて聞いてないけどな」 「じゅうだいめ…寒い」 「ん?」 「あっためて…ください…ベッドで」 俯いていた顔を上げると、大人にしては大きな丸い瞳が驚いたようにパチパチと瞬きをし、 そして、笑った。 「ああ、思いと行動は…成程、まだ完全に薬は抜けてなかったんだ」 「じゅうだいめ、す…き…」 (…いやだ、どうしてこんな言葉…!) 「そうだね、ま、オレを嫌いでも気持ちイイ事は好きだもんね」 (…いやだ、いやだ…!) 「心の防衛本能も働いたんだよ。ちょっと本気で撃とうかなって思ったし」 (…そのまま、その銃で、俺を…!) 「でも、殺さないよ。だって、これからまた楽しいコトするんだから」 「うれしい…はやく…来て」 涙を流しながら、でも多分自分は笑っている。 「君の短い人生を、少しでも幸せにしてあげたいな。 どうせ長生きはできないからね」 優しく酷いことを言う口が、自分の口を塞ぐ。 「仕事、今日中に済めばいいか。シャマルも待たしておこっと」 抱き上げられて運ばれる先で、再び、記憶は塗り替えられる。 「もう過去なんて思い出さなくていいよ。これから先は、オレのことだけ考えて」 そのほうが、しあわせだよ? でもオレのことを好きじゃなくなったら、またお薬変えなきゃね。 目を閉じる前に見えたあのひとは、 こんな事を笑いながらするような人には見えない無邪気な笑顔で、 優しく 今までの自分にさよならを告げた。 <終> ※ 終わりです。悲しいお話は苦手ですが、バッドエンドなお話はそうでもない …むしろ好きかも…(20090127) |