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吉川林産興業株式会社

吉川家の歴史

吉川家

 周防国岩国藩の藩主である。
 しかし、その起こりは古く830年もの歴史がある。
吉川家は、藤原氏南家の支流で、駿河国入江庄に住んで、入江氏を称した維清三代の孫、入江景義の嫡男経義が、寿永文治の頃(1183〜86)入江庄吉川(静岡県清水区)に居館を構えて、吉川と称したのが始まり。
 すなわち始祖経義は、源頼朝の側近に随従していた鎌倉武士で文治5年(1189)の奥州征伐、翌年の入京、建久4年(1193)の富士の巻狩にもみな、頼朝の侍者として参加している。
 二代友兼は、正治2年(1200)鎌倉幕府にそむいて西走中の梶原景時一族を、駿河の狐ヶ崎に要撃して、これを討滅したが、自らも戦死している。が、その功によって、三代朝経は播磨国福井庄(兵庫県姫路市南西部)の地頭職を得た。
 四代経光は承久(1221)の乱の戦功により、安芸国大朝本庄(広島県山県郡北広島町大朝)に地頭職を与えられた。
 五代経高、時勢に考えるところあり、その本拠を、駿河の吉川から安芸の大朝へ移した。
 正和2年(1313)のことである。
 経高の弟たちは、分割譲与の所領に根をおろし、播磨、石見、駿河、それぞれの吉川氏の祖となった。
 南北朝時代には、一族は南北に分裂したが、石見吉川(経茂→経兼)の経見(経兼の子)が惣領家を継いでからは、再び勢力を増していった。
 なお、八代経見の代、その本拠を大朝本庄より大朝新庄に移し、小蔵山城を築いている。
 十一代経基は、応仁(1467・8)の乱に東軍(細川勝元)に属して勇名を馳せたが、一方、和歌、連歌、禅籍を書写するなど文化活動も活発であった。
 十三代元経の妻は、毛利元就の妹であり、元就の妻は、元経の妹である。
 これより、吉川と毛利とは姻戚関係となるわけである。
 十四代興経は、あまりにも勇武であったためか、元就に嫌われ、隠居を強いられたばかりか、遂に謀殺されてしまった。
 元就の次男元春が、興経の養子となり、吉川家を継いでからは、小早川隆景(元春の弟)とともに、宗家を助け、世に毛利の両川と称された。のち、三家はともに豊臣秀吉の麾下に入り、九州征伐中、元春、元長が相次いで病死したので広家が後を継いで十七代当主となった。
 浩家は九州役の後、元正16年(1588)従四位下に叙せられ、同十九年(1591)、伯耆・出雲・隠岐・安芸の内で十四万石を領し、出雲富田(島根県出雲市広瀬)に居城を移す。
 関ヶ原役の前後、広家は毛利家の存続を計って、徳川家康に内通し、いろいろ暗躍するが、結局失敗に終わる。
 それでも、その尽力によって、防長両国を保つことができたのである。
 これより、吉川家は、周防の玖珂郡と大島郡の一部で三万石(のち公称六万石)の地を分与せられ、地域を岩国に構える。
 これが岩国藩であるが、実は、毛利嫌悪家老格に扱われていたのである。
 錦帯橋を造った広嘉以来代々、家格の復旧を希望し、毛利家へ申し入れるのであるが、応じないため、両家の仲は悪化していく。
 両家の仲が復旧するのは、毛利敬親、吉川経幹のとき、安政年中(1856)のことである。
 明治元年(1868)吉川家は諸侯の列に入り、同17年(1884)経健のとき、男爵を授けられ、同24年(1891)子爵に昇叙された。
 また経健の弟重吉も、同24年(1891)男爵を授けられた。

引用:吉川史料館資料より
吉川史料館HPはこちら

吉川家の系譜概要・家系図

 平成28年(2016)は初代(経義)より831年である。
藤原鎌足からカウントすると1347年である。

吉川家の系譜概要・家系図はhistory.pdf へのリンクをクリックして下さい。



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