更新日 1990年(平成2年)12月19日〜2022年(令和4年)9月12日
※ 私なりの解釈なので、あくまでも参考までに。
※ 突然の解説変更ございます。
平脈法・第二
脈を診断し治める方法・第二
(1)問ふて曰はく、脈に三部有り、陰陽相乘ず、榮衛血氣人の體躬に在り、
お伺いします。脈に陽部と中部と陰部の三部が有り、陰が陽の所へ行ったり陽が陰の所へ行ったりし、
栄衛と血気も自然に全身を巡り、
呼吸出入中を上下す。息の遊布するに因って津液流通す。
呼吸により出たり入ったりして体の中を栄衛の気が上下し、
息が緩やかに行き渡ることにより体の内外を津液が隅々まで潤う。
時に随ふて動作し、形容を効象す。
春夏秋冬の四時に従い、その時々の脈の形を象どり現わしていく。
春は弦、秋は浮、冬は沈、夏は洪。色を察し、脉を観るに、大小同じから不、一時之間にも變じて経常無く、
春は弦を現し、秋は浮を現わし、冬は沈を現わし、夏は洪を現わし、
四時の色(春は青色、夏は赤色、秋は白色、冬は黒色)を察し、
脈の形を観て陰と陽は同じではなく一季節の間にも狂いがありちゃんとした決まりがない。
尺寸参差し、或いは短、或は長、上下乖錯して、或は在し、或は亡ぶ。
尺と寸に高低があり揃わず、短いこともあり長いこともある。
浮と沈が背きたがったりなかったり。
病ひ輒ち改易して進退低昂す。心迷ひ意惑ふて動すれば紀綱を失ふ。
病は則ち脈の変に応じて進んだり退いたり、上ったり下ったりする。
そういうことを知らないために迷い、知っていても区別が出来ず、知りつつも原則を失ってしまう。
願はくば為に具陳して分明を得せしめ、
お願いします、理解する為、ひとつ残らず連ねて述べて分明を得させて下さい。
師の曰はく、子之問ふ所は、道の根源なり。
師が言われる、君の問う所は方術の道の一番の根源だ。
脉に三部有り、尺寸及び關榮衛流行して衡銓を失は不れば、
脈には三部在る。尺と寸と関である。栄衛が流れ行きつり合いを失わなければ
腎は沈、心は洪、肺は浮、肝は弦。
腎は沈脈で、心は洪脈で、肺は浮脈で、肝は弦脉である。
此れ自から經常にして鉄分を失はず、出入升降し、漏刻周旋し。
これが自からの経常であり、爪の垢程の狂いもなく、出たり入ったり、
昇ったり降りたりして時計の振り子の様に一定の速度で巡り回る。
水下ること二刻にして一周循環し、
水時計から水が下るのは24時間だから28分48秒で体を一回りして循環を繰り返し、
当に寸口に復して虚實見はる變化相乘し、
当然寸口に出たものが元へ戻り、虚実がここに現れて互いに乗り合い変化する。
陰陽相干せば、風は則ち浮虚、寒は則ち牢堅、沈潜は水畜、
陰と陽とが互いに背き合えば、風邪により傷害を受けると浮で虚の脈になり、
寒邪により傷害を受けると弾力がある堅い脈になる。
水飲により胃腸に水が多い者やオ(ヤマイダレ+於)血が多い者は沈脈になる。
支飲は急弦、動は則ち痛を爲し、數は則ち熱煩す。
支飲の病は強い弦脈になり、荒々しく動けば痛みがある。早ければ熱でもだえている。
設し應ぜ不る有らば、變の縁る所を知る。
もし病の源の脈と現れる証とが一致しないものが有れば病の繋がる所がわかる。
三部同じから不れば、病各端を異にす。
寸関尺の脈が同じで無ければ病の端がみんな異なる。
太過は怪しむ可し。不及も亦た然り、邪は空しく見はれ不、中に必ずカン(女+奸)有り。
脈の力が多すぎるのも正しくないし、少なすぎるのも正しくない。
正しくない脈が悪戯に現れ、中が必ず乱れ、
審らかに表裏を察し、三焦を別ち其の舍る所を知り、消息診看して、
表と裏をはっきりと見極め、三焦を区別してその病の宿っている場所を知り、
病の様子又は病の移り変わりをよく診て、
府藏を料度すれば、獨り見ること神の若し。
腑や臟を計り考えれば自然に病因や病状や病勢等が現れる。
これは人間以上の知識あるもので、まるで神様が示して下さるようだ。
子が為に條記す。傳へて賢人に與へよ。
君の為に筋道を記したのだから勉強熱心な人に伝えてあげなさい。
(2)師曰はく、呼吸者脉之頭也。
師が言われるのには、呼吸により脈は巡ると。
(3)初めて脉を持するに来るは疾く、去るは遲きは此れ出疾入遲。
初めて脈を診る時に、まず第一に指に当たった感じが寸口の脈が強く尺中の脈が鈍く、
内から外に出るのが強く、外から内に入るのが緩やかなのは、内が虚して外が実している。
名づけて内虚外實と曰ふ也。
これを名づけて内虚外実という。
初めて持するに来るは遲く、去るは疾きは此れは出遲入疾。
初めて脈を診る時に、まず第一に指に当たった感じが寸口の脈がゆるく尺中の脈が盛んで、
内から外に出るのが緩やかで、外から内に入るのが盛んなのは、内が実して外が虚している。
名づけて内實外虚と曰ふ也。
これを名づけて内実外虚という。
(4)問ふて曰はく、上工は望而之を知る。中工は問而之を知り、下工は脉而之を知ると。願はくば其の設を聞かん。
お伺いします。病を治す一番上手な人(10人診て9人治せる)は、病人の様子を診て病を知り、
二番目に上手な人(10人診て8人治せる)は、原因とか容態を問うて病を知り、
三番目に上手な人(10人診て7人治せる)は脈を診て初めて病がわかるとありますが、
お願いです、その訳をお聞かせください。
師曰はく、病家の人、請ふて云ふ。病人發熱身体疼むが、若し病人自から臥すると。
師が言うには、病家から迎えが来て、病人が熱を出して身体が疼いて起きていられず横になってしまったから
すぐ来て下さいと。
師到って其の脉を診するに、沈而遲なる者は、其の差えたるを知る也。何を以って之を知る、
そこで師が行ってその脈を診ると、その脈は沈んでそして遅いからその病は癒えたという事がわかる。
それはなぜかというと、
表に病有る者、脉は当に浮大なるべきに、
発熱身疼などの証がある者は、病は表に在るのだから脈は当然浮大でなければならないのに、
今反って沈遲故に愈ゆるを知る也。
今その脈が反対に沈んで遅いのだから、この脈により病が癒えたと知ることが出来るのだ。
(5)假令病人云ふ、腹中卒痛すると、病人自から坐す、
例えば、病人が急に腹中が痛いと言い出し、あまりの痛みの激しさに横になることも出来ず、
ただ座ってしまっていると使いの者が言いに来たので、
師到りて之を脉するに、浮而大なる者は、其の差えたるを知る也。何を以って之を知る。
そこで師が行ってその脈を診ると、その脈は浮いてそして大きいからその病は癒えたという事がわかる。
それはなぜかというと、
若し裏に病有れば脉当に沈而細なるべし。今脉浮大故に愈えらるを知る也。
もし裏に病有れば脈は当然沈んで細くなければならない。
その脈が今浮いて大きいのだから癒えたということがわかる。
(6)師曰はく、病家の人來り請ふて云ふ、病人熱を發し、煩極すと。
師が言うには、病家の使いが来て来診をお願いしたいと言い、その者が言うには、
病人が熱を出して苦しんでいると。
明日師到れば、病人壁に向って臥する。此れ熱已に去りたる也。
そこで師がその翌日病家に行ってみると、病人は壁の方を向いて横になっている。
これは既に熱は去っているのである。
脉和せ不れば處して言へ已に愈えたりと。
もしそれでも脈に熱の候が無かったら、これはもう癒えているんだという事を自分で判断してもよい。
(7)假令壁に向って臥し、師の到りたるを聞いて驚き起き不而盻視し、
もしも師匠が来たと聞かされても、そのまま壁の方を向いて起き上がろうともせず
余計な所へ来たなという感じの眼差しをし、
若しくは三言三止し、之を脉すれば、唾を嚥む者は、此れ詐病也。
若しくは口を利くのもたいぎそうにして、師がその者の脈を診ようと手を握ると唾を飲み込むのは、
これは嘘の病である。
假令脉自和すれば、處して言へ。
もし脈を診て何ともなければこれは間違いなく仮病である。
汝の病大いに重し、当に須く吐下の藥を服させ、鍼灸數十百處せしめて乃ち愈ゆべしと。
これは大変な重病だから吐剤や下剤を沢山飲み、
その上で体中に針を刺したり灸をすえたりしてやれば治るであろう、と脅かしてやりなさい。
(8)師、脉を持するに、病人欠する者は病無き也。之を脉するに呻る者は病む也。
師が脈診をしている最中、その病人が欠伸をするのは病気が無いか已に病気が癒えてしまったのだ。
病人が脈診をしてもらっている最中に呻りだす者は、これは本当に病んでいる。
言ふこと遲き者は風也。
病人が、ものを言う時に言葉がもつれてスラスラと言えない者は、これは脳卒中の気があるからだ。
頭を揺せて言ふ者は裏痛む也。
病人が、ものを言う時に頭をブルブルと震わせながら話す者は、これは裏に痛みが有る為だ。
行ふこと遲き者は表強ばる也。
病人が、自分で体を動かすのがとろい者は、これは表がこわばっているからだ。
坐而伏する者は短氣也。
病人が、座って前方にうつぶせている者は、ゆっくりと深く息をすることが出来ないからだ。
坐而一脚を下げる者は腰痛む也。
病人が、寝室に座っていて片足だけを下げている者は、腰に痛みがあるからだ。
裏實し腹を護ること卵物を懐くが如きは心痛む也。
病人が、苦しそうに腹を抱えている様子が、まるで卵をふところに入れそれを壊させまいと
両手でかばっている様に見える者は、心臓に痛みがあるからだ。
(9)師曰はく、伏氣之病は意を以って之を候ふ、
師が言われるには、伏気の病というものは、外には兆候が表れていないから
自分の考えをもって診察するもので、
今月之内に伏氣有らんと欲し、假令舊と伏氣有らば当に須く之を脉すべし。
病人が「今月の内に伏気が起きそうです。昔同じ月に伏気を病んだことがあります。」と言う者は、
当然その脈を診なければならない。
若し脉微弱の者は、当に喉中痛んで傷るるに似たるべし。喉痺非ざる也。
もし脈が微弱であったら「当に咽中が痛んで傷でもある様であろう。しかしこれは喉痺の病ではない。」と言うと、
病人云ふ、實に咽中痛む。シカリ(ヒトヤネ+小+読点又は爾)と雖も今復た下利せんと欲す。
病人が「誠におっしゃる通りで咽中が痛んでおります。その上下痢までしそうです。」と言う。
(10)問ふて曰はく、人病みて恐怖する者は、其の脉何の状ぞ。
お伺いいたします。恐怖の為に病になる者の脈は、どんな状ちなのでしょう。
師曰はく、脉の形絲を循づるが如く、累累然たり其の面白く脱色する也。
師が言われるには、脈が細くて遲くその手触りは丁度細い絹糸を撫でて所々で節に当たる様で
顔色は血の気が失せて白くなっているのだ。
(11)問ふて曰はく、人飮ま不るは其の脉何に類するか。師の曰はく、其の脉自からジュウ(サンズイ+嗇)脣口乾燥する也。
お伺いします。人が水分を摂らない時の脈は、何になるのでしょうか。
師が言われるには、その脈はジュウ(サンズイ+嗇)で唇や口中が乾いてパサパサになる。
(12)問ふて曰はく、人愧づる者は其の脉何に類するか、師の曰はく、脉浮而面色乍ち白く乍ち赤し。
お伺いします。人が恥じている時の脈は、何になるのでしょうか。
師が言われるには、その脈は浮いてその顔色はたちまち白くなったり赤くなったりする。
(13)問ふて曰はく、經に説く脉に三菽六菽の重さの者有りとは何を謂ふぞ也。
お伺いします。昔の方術の書に三菽六菽の重さが有ると説いてありますが、
これはどういう意味の事を言っているのですか。
師の曰はく、脉を人指を以って之を按ずるに三菽之重さの如き者は肺氣也。
師が言われるには、脈を指の腹の先で押してみて三粒の豆の重さ位の圧力で
指に触れてくる脈は肺の動きの表れである。
六菽之重さの者は心氣也。九菽之重さの如き者は脾氣也。
六粒の豆の重さ位の圧力で指に触れてくる脈は心臓の動きの表れである。
九粒の豆の重さ位の圧力で指に触れてくる脈は脾臓の動きの表れである。
十二菽之重さの如き者は肝氣也。之を按じて骨に至る者は腎氣也。
十二粒の豆の重さ位の圧力で指に触れてくる脈は肝臓の動きの表れである。
脈をグッと押さえて骨にまで達する程の力を加えないと指に触れない脈は、腎臓の動きの表れである。
(14)假令下利し寸口關上尺中悉く脉を見はさ不、然も尺中に時に一小見し、
例えば、下痢して寸口、関上、尺中の三部の脈が全部出なくなってしまった時に、
どうかすると尺中だけ時に微かに小さく脈が表れ、
脉再び頭を擧ぐる者は腎氣也。
それがきっかけとなり全部の脈がハッキリと出てくる者は腎臓の動きの表れである。
若し損脉來り至るを見はさば治し難しと爲す。
もしこの様な状態の時に、更に損じ傷られた脈が新たに出てきた場合は治し難い。
(15)問ふて曰はく、脉に相乘ずる有りて縱有り横有り逆有り順有りとは何ぞ也。
お伺いします。脈に相乗ずるという事が有り、
それには縦や横や逆や順が有るとは何のことですか。
師曰はく、水行きて火に乘じ、金に行きて木に乘ずるは、名づけて縱と曰い、
師が言われるのには、それは、水が行って火に乗じ、金が行って木に乗ずる。
これを名づけて縦(強いものが弱いものを制する)と言い、
火行きて水に乘じ、木行きて金に乘ずるを、名づけて横と曰う。
火が行って水に乗じ、木が行って金に乗ずる。
これを名づけて横(弱いものが強いものを制する)と言い、
水行きて金に乘じ、火行きて木に乘ずるは、名づけて逆と曰ひ、
水が行って金に乗じ、火が行って木に乘ずる。
これを名づけて逆と言い、
金行きて水に乘じ、木行きて火に乘ずるは、名づけて順と曰ふ也。
金が行って水に乗じ、木が行って火を乗ずる。これを名づけて順というのだ。
問ふて曰はく、脉に殘賊有りとは何の謂ひぞ也、
お伺いします。脈には殘賊と言うのが有りますが、それはどういう脈ですか。
(16)師曰はく、脉に弦、緊、浮、滑、沈、ジュウ(サンズイ+嗇)有り、此の六者を名づけて殘賊と曰ふ。
師が言われるには、脈には弦、緊、浮、滑、沈、渋が有る。
この六つの脈を名づけて殘賊と言う。
能く諸脉は病を作することを爲す也。
これらの脈は好んで病気を起こさせることが出来る力を持ったものだ。
(17)問ふて曰はく、脉に災怪有りとは何と謂ひぞ也。
お伺いします。脈に災怪というものがありますが何をいうのですか。
師曰はく、假令人病みて脉に太陽を得て形證與相應ず。因って湯を作ることを爲し、
師が言われるには、例えば、人が病んで脈に太陽病の脈が現われて脈と容態とが一致している。
それにより煎薬を作り、
還る比ほひ湯を送れば、食頃の如きにして病人乃ち大いに吐し、若しくは下利して腹中痛む。
患者の家を出る頃までにその薬を与え、15分から20分位しか経っていないのに
病人が大いに吐くか下痢して腹中痛みだす。
師曰はく、我れ前に來たりしに此の證見はれ不、今乃ち變異す。是を災怪と名づく。
私が前に来た時にはこの証は現れていなかった。今乃ち変異したのだ。
こういうのを災怪と言うのだ。
又問ふて曰はく、何に縁りて此の吐利を作す。
もう一度お尋ねします。何によってこの吐き下しを起こしたのでしょうか。
答へて曰はく、或は舊時藥を服すること有り、今乃ち發作す。故に災怪と名づくる耳。
師が答える。先刻診察したよりも以前に服した薬が、今の今発作を起こしたのだ。
この様に予期せぬ病証を起こすのだからこれを災怪とまあ名づけるのだ。
(18)問ふて曰はく、東方の肝脉其の形を何に似たりや。
お伺いします。東方(春)の肝脈というものはその形は何に似ているのですか。
師曰はく、肝者木也、厥陰と名づく。
師が言われるのには、その性質は木に似ているから木とする。
これを厥陰(陰の終り陽の始まりだから)と名付ける。
其の脉微濡弱而長是れ肝脉也。
その脈は木に似たもので少し弦で滞りがちで弱くそして長いのが正常な脈でり、
これが肝脈の形である。
肝病んで自から濡弱を得る者は愈ゆる也。
肝臓が病んだ時に濡弱でなかった脈が、濡弱になった者は愈ゆるのである。
假令、純弦の脉を得る者は死す。何を以って之を知る。
例えば、混じりけのないピーンと張った弦脈の者は死ぬ。
どういう所からこれがわかるのかというと、
其の脉弦直の如きは、是れ肝の藏傷たるを以っての故に死することを知る也。
純弦脈の者は、肝臓が破られた時だけに表れるものだから、それで死ぬことがわかるのだ。
(19)南方の心脉は、其の形何に似たるか。
夏の王脈である所の心臓の脈は、何に似ているのでしょうか。
師曰はく、心者火也。少陰と名づく。
師が言われるのには、心というものは性質が火に似ているから火とする。
これを少陰(陰が少ないから)と名付ける。
其の脉は洪大而長、是れ心脉也。
その脈は、脈に力が有り溢れてくるようで太くて長い。
これが心臓の脈の形である。
心病自から洪大を得る者は愈ゆ也。
心臓の病で、自ら洪大の脈を得る者は愈ゆるのである。
假令、脉來ること微、去ること大なるは、故に反と名づく。病裏に在る也。
例えば、寸口の脈が微で尺中の脈が大であれば、それはあべこべなので
(心脈の正常な脈は寸口を大とし尺中を微である)これを反という。病が裏にあるのだ。
脉來ること頭小本大なる者は、覆と名づく。病ひ表に在る也。
脈の打つのが、上の方は小さく下の方が大きい者は、上下がひっくり返しになっているので
(心脈は正常の脈は上の方が大で下の方が小である)これを覆という。病は表にあるのだ。
上微に頭小なる者は、則ち汗出で、下微に本大なる者は、則ち關格不通と爲す。
寸口が微で浮の位が小さい者は汗が出て、尺中が微で沈の位が大きい者は
内は閉ざして出さず外は拒んでは入れない。
尿を得不、頭に汗無き者は治可し、汗有る者は死す。
小便をしても小便が出ず、頭に汗が無い者は治せるが、汗有る者は治せず死ぬ。
(20)西方の肺脉、其の形何に似たる。
秋の王脈である所の肺脈は、何に似ているのでしょうか。
師曰はく、肺者金也、太陰と名づく。
師が言われるには、肺というものは性質が金に似ているから金とする。
これを太陰(陽が少なく陰が多いから)と名付ける。
其の脉は毛浮也。
その脈は、モクモクとした毛に触る様に浮いている。
これが肺の脈の形である。
肺病んで自から此の脉を得、若くは緩遲を得る者は、皆愈ゆ。
肺病になって自らこの脈を得て、若しくは脈の手触りが緩やかで遅い者は皆愈ゆ。
若し數を得る者は則ち劇し。何を以って之を知る。
もしも脈が早い者は、則ち病が酷くなる。どうしてそれがわかるのかというと、
數なる者は、南方の火、火西方の金を剋す。
脈が早い者は心臓の熱であり、その熱が肺に入り込み肺の静を傷るからだ。
法当に癰腫すべし、治し難しと爲る也。
この場合、大抵癰腫が出来るものである。この癰腫を生じた者は治しにくい。
(21)問ふて曰はく、二月に毛浮の脉を得たれば、何を以って處して言ふ、秋に至りて当に死すべしとは。
お伺いします。二月に毛浮の脈を得れば、どういう理由で秋になったら当然死ぬと断言できるのでしょうか。
師曰はく、二月之時は脉当に濡弱なるべきに、
師が言われるには、二月の時は当に微弦濡弱長の脈になるべきなのに、
反って毛浮を得るが者、故に秋に至りて死するを知る。
反って毛浮の脈になったなら秋になったら死ぬという事がわかる。
二月は肝事を用い、肝脉は木に屬し、濡弱に應ずべきに、反って毛浮を得たる者は、是れ肺脉也。
二月は肝臓が盛んになる。肝の脈は木に属し、微弦濡弱になるべきなのに、
反って毛浮を得る者はこれは肺脈である。
肺は金に屬す。金來たりて木を剋す。故に秋に至って死するを知る。他も皆此れに倣へ。
肺は金に属する。金が外から来て木をころす。だから秋になれば死ぬことがわかる。
他の心脾肺腎の四つの臓、則ち五月(正常な脈は洪大)に沈脈を得て、八月(正常な脈は毛浮)に洪大を得て、
十一月(正常な脈は沈脈)に緩脈を得るものもこれに習え。
(22)師曰はく、脈は肥人は浮を責し、痩人は沈を責す。
師が言われるには、肥満の者が浮脈を表す原因を正し、痩せている者が沈脈を表す原因を正さないといけない。
肥人は当に沈なるべきに今反って浮、痩人は当に浮なるべきに今反って沈、故に之を責す。
肥満の者は当然脈がわかりにくく沈んでいるはずなのに反って浮いている。
痩せている者は当然脈がわかりやすく浮いているはずなのに反って沈んでいる。
だからなぜそうなったのか原因を解明しなさい。
(23)師曰はく、寸脉下りて關に至ら不るは陽絶と爲し、尺脉上りて關に至ら不る陰絶と爲す。此れ皆決死不治也。
師が言われるのに、寸脈だけあって関脈が表れない者は、陽絶(陽が絶える)とし、
尺脈だけあって関脈が表れない者は陰絶(陰が絶える)とし、これは皆治らず必ず死ぬ。
若し其の餘命死生之期を計らんとすれば、期するに月節之を剋するを以てする也。
もしその決死不治の者の余命や死生の期を計ろうとするならば、
月(三十日)の節から節までがその期として計算する。
子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)
(24)師曰はく、脉病んで人病しま不るは名づけて行尸と曰ふ。
師が言われるには、人が脈を病んでるにもかかわらず苦しみを感じない者がいるが、
これは行尸(生きている死体みたいなもの)という。
王氣無きを以って卒に眩仆して人を知ら不る者は、短命にして則ち死す。
よって五臓に王気が無い為に急に目がくらんで倒れ意識不明の者は早死にする。
人病みて脉病ま不るは、名づけて内虚と曰ふ。穀神無きを以って困すと雖も苦しむこと無し。
また、人が病んでいるというのに脈には異常が表れない者がいるが、これは内虚といって
穀神(身体を養い働きを行う物)がないのが原因であるから、病人は体を自由に動かせなくなるが
苦しいというところは無いのだ。
(25)問ふて曰はく、翕奄沈名づけて滑と曰ふは何の謂ひぞ也。
お伺いします。翕奄沈の脈を滑と名付けていますが、それはなぜですか。
沈を純陰と爲し、翕を正陽と爲す。陰陽和合す故に脉を滑なら令む。
それは沈を純陰(混ざり気が無い陰)とし、翕(盛上る)を正陽(正しい陽)とし、
この純陰と正陽とが和合すると滑を生ずるから、これを滑というのだ。
關尺自から平。陽明の脉微沈なれば、食飮自から可、少陰の脉微滑、滑なる者は緊、之浮の名也。
寸口の脈だけが滑で、関上と尺中は正常な脈で、陽明(胃脈)の脈が微沈であると飲食は普通にでき、
少陰(腎脈)の脈が微滑であると、この滑というのは緊(陰)浮(陽)をいうのである。
此れを陰實と爲す。其の人必ず股内に汗出で陰下濕る也。
この滑を現わしているのは陰実とし、その人は必ず股内に汗が出て陰下が湿るものである。
(26)問ふて曰はく、曾て人の爲に難めらる所の緊脉何く從りして來るか。
お伺いします。以前から自分により作り上げられた緊脈は、どういう原因から生ずるのでしょうか。
師曰はく、假令、汗を亡し若しくは吐し、肺の裏寒するを以ての故に令て緊ならしむる也。
師が言うには、例えば汗を失わせたり、吐いたりした為に、肺の中が冷えた場合に生ずるものである。
假令ガイ(亥+欠)する者坐に冷水を飮む故に脉を令て緊ならしむる也。
または、咳をしている者がしきりに冷水を飲んだ為に、それが原因となり生ずるものである。
假令、下利すれば胃中虚冷するを以ての故に、脉を令て緊ならしむる也。
または、下痢をすると胃中が虚冷するから、それで生ずることもある。
(27)寸口の衛氣盛んなるは名づけて高と曰ひ、
寸口の脈の衛気(陽気)が盛んになれば増々上がる。それで高と言い、
榮氣盛んなるは名づけて章と曰ふ。
栄気(血気)が盛んになれば血は内を行き、その形を明らかにしないのも盛んになればその状を表す。
それで章(ショウ あきらか)という。
高章相搏つは名づけて綱と曰ふ。
陽気盛んは太くなり血気の盛んは堅くなる。その脈は太い綱の様な形をしている。
だから高と章が互いにぶつかり合うのを綱という。
衛氣弱きは名づけてチョウ(リッシンベン+世+木)と曰ひ、榮氣弱きは、名づけて卑と曰ふ。
衛気(陽気)が弱いと恐れるからこれを名づけてチョウ(リッシンベン+世+木)といい、
栄気(血気)が弱いと屈するからこれを名付けて卑という。
チョウ(リッシンベン+世+木)卑相搏つは名づけて損と曰ふ。衛氣和するは名づけて緩と曰ひ、
チョウ(リッシンベン+世+木)と卑が互いにぶつかり合い平常より脈が足らなくなるからこれを損といい、
衛気が穏やかになれば緩やかな脈になるからこれを名付けて緩という。
榮氣和すれば名づけて遲と曰ふ。遲緩相搏つは名づけて沈と曰ふ。
栄気が穏やかになれば落ちついた遅い脈になるからこれを名付けて遅という。
遅と緩が互いにぶつかり合えば脈は沈んでいくからこれを名付けて沈という。
(28)寸口の脉、緩而遲、緩は則ち陽氣長じ、其の色鮮かに、其の顔光り、其の聲商毛髪長ず。
寸口の脈が緩遅の緩は陽気が伸び、皮膚の色が生き生きとし、その顔は艶が有り輝いて、
声の響きが強く、髪の毛の伸びが良い。
遲は則ち陰氣盛り、骨髄生じ、血滿ち肌肉緊薄鮮コウ(革+更)。