更新日 2010年(平成22年)6月19日〜2023年(令和5年)11月20日
※ 私なりの解釈なので、あくまでも参考までに。
※ 突然の解説変更ございます。
金匱要略方論序
張仲景、傷寒雑病論合せて十六巻を為す。
中国後漢時代に官僚を務めていた医師の張仲景(張機)が、『傷寒雑病論』と称した書物を十六巻書き上げました。
今世但傷寒論十巻を傅え、
しかし、長年の戦乱による混乱と、この書を秘伝扱いにした一部の医師達により、
今世になっても傷寒論十巻のみ伝えられ、
雑病は未だ其の書を見ず、
十六巻の中の雑病が記載されたものは未だ行方不明で見ることが出来ないでいます。
或いは諸家の方中にその一二を載せたり。
ただ様々な医書の中に、その1〜2の薬方が載せられているのを見るだけになってしまいました。
翰林学士王洙館閣に在るの日、
ところが北宋国の仁宋皇帝時代、翰林学士院に務めていた王洙という人が
蠹簡中に於て仲景金匱玉函要略方三巻を得たり。
蔵書が保管されている館閣に、ある日虫食いの書物の中から『仲景金匱玉函要略方』三巻を見つけたのです。
上は則ち傷寒を辯じ、中は則ち雑病を論じ、下は則ちその方を載せ、併せて婦人を療し、
上巻には傷寒について述べられ、中巻には雑病について述べられ、
下巻には薬方を載せると共に婦人病の治療について述べてあります。
乃ち録して之を傅うるの士流才かに数家耳、嘗て以て方に対し、證に対する者を、之を人に施すに、その効神の若し、
それを筆録して伝える者は僅か数人でしたが、この薬方に対し証に合った者に試しみたら、
その効果は神業のように素晴らしい効き目でした。
然而して、或いは證有って方無きあり、或いは方有りて證無きあり。
しかし証が記載されていてもそれに対する薬方が書かれていなかったり、
薬方が記載されていてもそれに対する証が書かれていなかったりと、
疾を救い、病を治するに、その未だ備わらざる有り。国家儒臣に詔して、医書を校正せしむ
疾患を救い病気を治療するにはまだ不十分なので、帝王が私たち儒臣に命令する文書をおくられ、
医書を校正していったのです。
臣奇先に傷寒論を校定し、次で金匱玉函経を校定し、
私達はまず『傷寒論』の内容の誤りなど検討して校正し、
次に『傷寒論』とは異なる『金匱玉函経』も同じように校正した後、
今又此の書を校成す。
更にこの書を校成していくこととなりました。
仍て逐方を以て證候の下に次、倉卒の際に檢用に便なら使むる也。
下巻に載っている薬方を各々症候の後に付け加え、とっさの時でも解りやすくし、
又諸家に散在するの方を採り、
『千金方』や『外台秘要』等の書物に散在する張仲景が考え出した薬方を、
逐篇の末に附して以てその法を広む。
その書物から推定して選び出し、各々の病篇の後に附し、その治療法の幅を広げていきました。
其の傷寒の文には節略なるを多く以ての故に
上巻に載っている傷寒の文と『傷寒論』の文を比較すると、省略されている箇所が多く、
雑病自り以下飲食禁忌に終わる。
中巻に載っている雑病から下巻の飲食禁己で終わっていたのです。
凡そ二十五篇を断り、重復を除き、合せて二百六十二方勒みて
その除かれた箇所は凡そ二十五篇で、重複しているのを除けば全部で二百六十二の薬方があり、
上中下三巻と成し、舊名に依り金匱方論と日う。
それを上・中・下の三巻にまとめ上げ、以前の名の通り『金匱要略方論』としました。
臣奇嘗て魏志華佗傳を読みて、書一巻を出して云く。日うこの書以て人を活かす可しと。
私達は以前『魏志華佗伝』を読みました。華佗は一巻の書物を作り、この書により人を活かしなさいと述べていましたが、
毎に観に、華佗が凡そ療病する所を、多く奇怪を尚ぶ。聖人の経に合わ不。
華佗が毎回病気を治療しているところを見ると、とても奇怪なものが多く理解しがたいものです。
これは聖人の道に合わない。
臣奇謂、人を活かす者は必ず仲景の書也。
私達が思うに、人を活かすものは必ず張仲景の書物なのだと。
大いなるかな炎農の法我が盛旦に属す。
この医学を日々努力して勉学に励めば、とても偉大な力になるでしょう。
恭惟に、主上大統を丕承し、元元を撫育し、方書を頒行し、疾苦を拯濟し、
ただ願うのは、帝王が今の位を受け継いで、民を大切にし、この方書を広く皆にわけ与え、疾患の苦しみを改善し、
和気を使て、盈溢せしめ、萬物をして、盡く和せ不る莫しむ矣
穏やかな気持ちを溢れるほどいっぱいに満たし、一人でも気を和ませられないようなことがないようにと。
太子右賛善大夫臣 高保衡
尚書都官員外郎臣 孫奇
尚書司封郎中直秘閣校理臣 林億 等傳上
《金匱要略方論序》
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