更新日 1990年(平成2年)9月8日〜2023年(令和5年)10月17日
※ 私なりの解釈なので、あくまでも参考までに。
※ 突然の解説変更ございます。
臓腑經絡先後病脉證・第一
五臓と腑(胃・小腸・大腸・胆・膀胱・三焦)と手足三陰三陽の経脈と絡脈の
先後して病む者の脈状と証候を詳しく述べたもの・第一
(1)問ふて曰く、上工は未病を治すると、何ぞ也。
お伺いします、上手な技術を持った医者は、まだ病まない者をを治すとはどういうことですか。
師の曰く、夫れ未病を治するとは肝の病を見れば肝が脾に傳へるを知り當に先ず脾を實す。
師匠が言う、まだ病まない者を治すというのは、例えば肝の病を診れば肝がその病を脾に伝えるから、
先ず第一に脾を病ませない様に補ってやるのである。
四季脾王す。邪を受け不即ち此を補ふ勿れ。
但だ四季(春夏秋冬の各末期の土用)は、脾気が盛んになり邪を受けにくいので肝が病むことがあっても
脾は邪を受ける事は少ないから土用の日は甘味の薬を用いて脾を補わなくてもよい。
中工は相傳へるを暁ら不肝之病を見て脾を實するを解せ不惟肝を治する也。
中等度の医者(10に7治せる者)になると、肝の病が相伝えるという事に気付かず、
そして肝の病を診て脾を補う事が判らず、但だ肝のみを治すのである。
夫れ肝之病補ふに酸を用ひ助くるに、焦苦を用ひuに甘味之藥を用ひて之を調ふ。
そもそも肝の病は不足を補う為に酸味を用い、苦味の有る薬を用い損を埋め、
甘味の薬を用いてこれを調える。
酸は肝に入り、焦苦は心に入り、甘は脾に入る。
酸味の薬は肝に入り、苦味の薬は心に入り、甘味の薬は脾に入る。
脾能く腎を傷る、腎氣微弱なれば則ち水行か不、水行か不れば則ち心火の氣盛ん。
脾はよく腎を傷つけ、腎が障害を受けると腎気が微弱になり水を巡らす事が出来なくなる。
水が隅々まで行き渡らなくなると心火の気が盛んに活動し始める。
心火の氣盛んなれば則ち肺傷らる、肺傷らるれば則ち金氣行か不、金氣行か不れば則ち肝氣盛ん、
故に脾を實すれば則ち肝自から愈ゆ。
心火の気が盛んになると肺が傷つけられ、肺が傷害を受けると肺金の気が衰えて肝の気が盛んになる。
だから脾を補ってやれば肝の病は自然に治るのである。
此れ肝を治するに脾を補ふ、之要妙也。肝虚すれば則ち此の法を用ふ、實なれば則ち之を用ふるに在ら不。
肝を治すのに脾を補うというのはこれは原則である。
但しこれは肝が虚して病気になった場合の話であって、もし反対に肝が実して病んだ時には用いない。
經に曰く、虚すると虚さし實するを實させず不足を補ひ、有餘を損ぜよとは是れ其の義也。
これは難経第八十一難でも言っている事であるが、虚なる者を更に虚したり実している者を更に実したりせず不足は補い、
余っているものは減らすとは、つまり道理に従って行動することである。
餘の藏も此に準ず有餘を損ぜよとは是れ其の義也。餘の藏も此に準ず。
これは肝の臓ばかりではない他の臓も皆これに従うべきである。
(2)夫れ人五常を稟けて風氣に因って生長す。風氣能く萬物を生ずると雖も亦能く萬物を害す。
人は天から仁義禮智信の五常を受けて肝心脾肺腎の五臓を保ち、温涼燥湿の風気によって生長するが、
風気というものはよく萬物を生長させると同時に一方ではよく萬物を害する。
水の能く舟を浮かべ亦能く舟を覆すが如し。
それは恰も水がよく舟を浮かべ、またよく舟を転覆させひっくり返させた様なものである。
若し五臓の元眞通暢すれば人即ち安和、客氣邪風人に中れば多く死す。
もしも五臓が本来の徳(肝は血を臓し、心は脈を臓し、脾は栄を臓し、肺は気を臓し、腎は精を臓する)と、
各本来の神(心は神を、肺は魄(肉体)を、肝は魂(精神)を、脾は意と智を、腎は精と志とを臓している)を持って、
痞えずにスラスラと通じて伸びていれば人は心身ともに安らぎ和やかであるが、
外から加えられる有害の気(例えば寒熱燥湿風又は毒物の類等全て外から来て身に害を与えるもの)や、
邪風(季節の風以外の吹く風)に中てられれば、人は多く死ぬことになる。
千般のチン(ヤマイダレ+火)難三條を越へ不、一なる者經絡邪を受け臓腑に入る内に因る所と爲す也。
千般のチン(ヤマイダレ+火)難と言って色々な病気があってもその原因は次の三條を越える事はない。
先ずその第一は経絡に邪を受けてその邪が臓腑に入る。これは内因と言って内に因る所から生ずるのである。
二なる者四肢九竅血脉相傳へ壅塞通ぜ不、外皮膚に中る所と爲す也。
第二は両手両足、目2、鼻2、耳2、口1、肛門1、尿道口1に邪を受けて血脈に伝え血の流れが塞がって通じなくなる。
これは外皮膚にあたる所から生ずるのである。
三なる者房室金刄蟲獣の傷ふ所此を以て之を詳らかにすれば病由って都て盡く。
第三は男女の交わりや金物や毒虫悪獣により傷られる所から生ずる。だからこれをもってこれをよく考えれば、
病の原因は全て尽きるであろう。
若し能く養愼し邪風を令て經絡に干忤せしめ不。
人はよく養い、慎み、邪風(有害な虚方より吹いてくる風)を避ければ、外邪が経絡を侵すことはない。
適ま經絡に中れば未だ腑臓に流傳せしめず。即ち醫して之を治し、
それでもたまたま経絡にあたったら、臓腑に移り拡がらない様に医者が直ちに手当を加えて治し、
四肢才に重滞を覺ゆれば即ち導引、吐納、鍼灸、膏摩し九竅を閉塞せ令むる勿れ。
手足が少しでも重い怠いと思えば即座に運動したり、深呼吸したり、鍼や灸をしたり、揉み和らげたりよく摩ったりして、
九竅(目・鼻・耳・口・肛門・尿道)に悪い影響を及ばない様にし、大小便の出が悪くならない様にしなさい。
更に能く王法を禽獣災傷を犯すこと無く房室は竭乏せ令むる勿れ。
更にその時の陽気を重んじて無茶なことをせず、鳥や獣や災傷には十分用心してその害を被らない様にし、
性行為は欲に任せて精髄を抜け殻にする様な事はせず慎み、
服食は其の冷熱苦酸辛甘を節し形體に衰へ有るを遣不れば病則ち其のソウ(月+奏)理に入る由無し。
衣服はその寒温に適して加減し、暑いからと急に衣を脱いで裸になったり、寒いからと急に厚着したりすることなく、
飲食は渇きに任せ大量に水を飲んだり、空腹だからと大量に食べたりする様な事はせず、
好きに任せて苦酸甘辛鹹の味を偏った摂り方をせず身体に無理を与えなければ、
病気がソウ(月+奏)理に侵入することはない。
ソウ(月+奏)なる者は是三焦通じ元眞之會ふ處血氣の注ぐ所と爲す。
ソウ(月+奏)というのは、三焦(上焦=呼吸・中焦=消火吸収・下焦=排泄)の陽気と五臓の精気が通じたり
集めたりする場所で、血と気の働きが行われる所である。
理なる者は是皮膚臓腑之文理也。
理というのは、これは皮膚や臓腑の物事の筋道である。
(3)問ふて曰く、病人の氣色が面部に見はるる有りと。願はくば其の説を聞かむ。
お伺いします。病人の五臓の気色が顔に表れるとありますがそのお話をお聞かせ願いますか。
師の曰く、鼻頭の色青く腹中痛み冷を苦しむ者は死す。(云腹中冷苦痛者死)
師匠が言う、鼻の一番付け根の目と目の間の所が青く腹痛があり手足や腹中等冷えて苦しむ者は死ぬ。
鼻頭の色微に黒き者は水氣有り、色黄なる者は胸上に寒有り、色白き者は亡血也。
鼻の一番付け根の目と目の間の所が少し黒い者は水気が有り、黄色い者は胸上の辺りに寒があり、
白い者は亡血が有る。
設し微に赤く時に非ざる者は死す。その目正しく圓き者はケイ(ヤマイダレ+至)す、治せ不。
もし少し赤みを帯びてその時の病証(例えば胸上辺りに寒が酷いのに黄色くならず赤になる者等)と合わない者は死ぬ。
その眼が真ん丸い者は破傷風等で痙攣を起こしている。これは治らない。
又色青きを痛みと爲す。色黒きを労と爲し、色赤きを風と爲し、色黄なる者は便難く、色鮮明なる者は留飮有り。
又眼の周囲が青い者はどこかに痛みが有り、黒い者は病が在り労病になっていて、赤い者は風邪をひいている。
黄色い者は大便が出にくく、色がとりわけスッキリとして鮮やかな者は留飲(内に水が溜まって留まっている)が在る。
(4)師の曰く、病人語る聲寂然として喜ば驚呼する者は骨節の間病む。
師匠が言う、病人の話す声が低くて弱くしわがれている様で、
時々無理に力を入れて話そうとする者は骨節の間に病が在り、
語聲イン(口+音)イン(口+音)然として徹せ不る者は心膈の間病む。
病人の話す声がカスレて痞えて上手く喋れず又はハッキリとしないのは心膈(胸と腹の間)に病が在り、
語る聲シュウ(口+秋)シュウ(口+秋)然と細く而長き者は頭中病む。(一作痛)
病人の話す声が恨みすすり泣く様な細く長く染み渡る様なのは頭中に病が在るのだ。
(5)師の曰く、肩を揺るがして息する者は心中堅し。息胸中に引いて上氣する者はガイ(亥+欠)す。
師匠が言う、肩を揺らしてセイセイと息する者は心中が堅くなっている。
息が胸中に引いて上気(自然にクーっと上に突き上がる感じ)する者は咳が出る。
息口を張り短氣する者は肺痿唾沫す。
息をするのに口を張ってセイセイと息の早い者は肺痿を病んでいて唾が出る。
(6)師の曰く、吸而微數なるは其の病中中焦に在りて實也。當に之を下すべし。即ち愈ゆ。虚なる者は治せず。
師匠が言う、吸う息が少し早くなる者はその病は胃の中に在って実してるのだから恐らくこれを下してやれば治る。
但し虚している者なら治らない。
上焦に在る者其の吸促なると下焦に在る者其の吸遠きとは此皆治し難く呼吸動揺振振たる者は治せず。
上焦に病が在ってその吸う息の矢継ぎそうに早い者や下焦に病が在る者でその吸う息の合間が長い者は皆治し難く、
呼吸の様子に震えがある者は治らない。
(7)師の曰く、寸口の脉動ずる者其の王時に因って動ず。
師匠が言う、寸口の脈がその時激しい動きをするのは、その春夏秋冬の四時により特別な打ち方を表す。
假令肝王すれば色青し、四時各の其の色に隨ふ。肝色青く而反って色白きは其の時の色脉に非ず、皆當に病むべし。
例えば肝臓が王する時は青色(弦)の脈を表す。肝臓ばかりでなく夏(洪)秋(浮)冬(沈)の三時も皆その時の色に従ってその脈を表す。
ところが肝王の時青脈(弦)を表すはずが反対に白脈(浮)を表すのは、これはその時の色ではない。
その時の色ではないからそういう時は皆当然病むのだ。
(8)問ふて曰く、未だ至らず至る有り、至りて至ら不る有り、至りて去ら不る有り、至って太過有りとは何の謂ひぞ也。
お伺いします、未だその時の季節でないのにその時の気候が来て、その季節になったのに未だその気候が来ない、
季節が交換する時が来たのにその気候が居座って去らないものが有り、
来る時期に来たものが来過ぎる事が有るとはどういう事でしょうか。
師の曰く、冬至之後、甲子の夜半に少陽起きる、少陽之時陽始めて生じ天温和を得。
師匠が言う、十二月二十日頃に冬至が当り一年の中で一番日が短い日の後の六十日の雨水の頃の夜半に少陽が起こる。
少陽の時に陽が初めて生じ陽気が少し温和になるのである。
未だ甲子を得ずして以て天因って温和なるは此を未だ至らず至ると爲す也。
ところが未だその甲子が来ないのに陽気が温和になるのはこれが未だ来る時ではないのに来るという事である。
甲子を得るを以て而天未だ温和ならざるは此を至って至ら不と爲す也。
又その甲子が来たにもかかわらず陽気が未だ温和にならないのは、これは来る時が来たのに未だ来ないという事である。
甲子を得るを以て而天の大寒解せ不るは此を至りて去ら不と爲す也。
又その甲子が来ているのに陽気の大いに寒いのが抜けないのは、
これを交換する時が来たのに居座って去らないというのである。
甲子得るを以て而天温かきこと盛夏五六月の時の如くなるは此を至りて太だ過ぎたりと爲す也。
又その甲子が来たばかりなのに陽気の暖かさがまるで真夏の様なものを来る時期に来たものが来過ぎるというのである。
(9)師の曰く、病人脉浮なる者前に在りては其の病表に在り、浮なる者後に在りては其の病裏に在り、
腰痛み背強り行ふ能は不、必ず短氣而極まる也。
師匠が言う、病人の脈が浮いている者でそれが午前中であれば病気は表にあり背から腰にかけて強張り痛む。
それが午後であれば病気は裏にあり息切れが酷くなるはずである。
(10)問ふて曰く、經に云ふ、厥陽獨り行くとは何の謂ぞ也。
お伺いします、素問霊枢難経で皆相手があって陽の行く所必ず陰を従え、陰の行く所また必ず陽を伴う道理なのに、
これは但だ陽だけ行って陰を従えないとはどういうことですか。
師の曰く、此を陽有って陰無しと爲す。陰故に厥陽と稱す。
師匠が言う、陽が有るだけで陰が無いから厥陽と言うのである。(*厥陰の者も厥陽の者も死ぬ)
(11)問ふて曰く、寸脉沈大而滑沈は則ち寒と爲し滑は則ち氣と爲す。
お伺いします、寸脈が沈大そして滑、沈は寒で、滑は気である。
(寸口=手首の直ぐ後の所・関上=寸口の後の少し骨が突き出ている位置する所・尺中=関上の直ぐ後の凹んだ所)
實と氣と相搏ち血氣臓に入れば即ち死し、腑に入れば即ち愈ゆ。此を卒厥と爲すとは何の謂ぞ也。
その実(寒)と気とが相迫って、その為血の勢いが臓に入れば即座に死に、その血の勢いが腑に入れば即座に治る。
これを卒厥というのはどういうことですか。
師の曰く、脣口青く身冷ゆるを臓に入ると爲す。即ち死す。身和するが如く汗自から出づるを腑に入ると爲す。即ち愈ゆ。
師匠が言う、唇が青く身が冷える者は経脈の血と気が無いのだから、血の勢いが臓に入ったら即座に死ぬ。
身が和やかで身体が少し温まり汗が自然に出るなら、血の勢いが腑に入ったということなのでこれは生き返るのである。
(12)問ふて曰く、脉脱して臓に入れば即ち死し、腑に入れば即ち愈ゆとは何の謂ぞ也。
お伺いします、経脈の気がその常規を脱線して臓に入れば即死で、腑に入れば直ちに治るというのはどういうことですか。
師の曰く、一病爲るのみに非ず、百病皆然り、譬へば浸淫瘡の口從り起り流れて四肢に向ふ者は治す可く、
師匠が言う、それはある一つの病ではない全ての病気が皆そうであるが、
例えば瘡より生じて蔓延していく浸淫瘡(一種の熱性皮膚疾患・丹毒・天疱瘡・水疱性類天疱瘡等)である。
浸淫瘡が口から始まって手足に向って流れ拡がっていくものは治せるが、
四肢從り流れ来り口に入る者は治す可から不るが如し。
逆に手足から流れてきて口に入るものは治すことが出来ない。
病外に在る者は治す可し。裏に入る者は則ち死す。
それと同様に病が外に在る者は治せるが、病が裏に入る者は死ぬのである。
*口を外内の門戸とし、口から出るのを外に在りとなり、口から入ってくるのを裏に入ると言う。
(13)問ふて曰く、陽病十八とは何の謂ぞ也。師の曰く、頭痛、項、腰、背、臂、脚の掣痛。
お伺いします。陽病(外に在る病)に十八病あると言いますがそれはどんなものをいうのですか。
師匠が言う、陽の病証は頭痛と項や腰や脊(背中)や臂(腕)や脚の掣痛(痛い所を引っ張られる様な痛み)が
(六病証×太陽病・陽明病・少陽病)陽病が十八(六病証×三陽病)ある。
陰病十八よは何の謂ぞ也。師の曰く、ガイ(亥+欠)上氣、喘エツ(口+歳+ノ)咽、腸鳴、脹滿、心痛、拘急、
陰病十八とはどういうのを言うのですか。師匠が言う、陰の病状はガイ(亥+欠)上気(上へ突き上げてきて止めようのない咳)、
喘エツ(口+歳+ノ)咽(ゼィゼィと言いシャックリをしてのどが詰まる)、腸鳴、脹満、心痛、拘急(引き攣って痛んで伸びない)が
(六病証×太陰・少陰・厥陰)陰病が十八(六病証×三陰病)ある。
五臓の病、各の十八有り、合せて九十病と為す。
そして五臓(重病)の病に各々十八病あるから合せて五臓の陽病が九十(五臓×十八病)あり、
五臓の陰病も又九十(五臓×十八病)ある。
人に又六微有り、微に十八病有り、合せて一百八病と為す。
人にはまた六腑(軽病)がある。腑の病も十八病有り、合せて百八病(六腑×十八病)有る。
五労七傷六極婦人三十六病は其の中に在らず。
しかし五労(五臓の疲れから生ずる病)や七傷(精神の過労より来る七つの病)や
六極(無理して六つの外気に侵されたもの)や婦人三十六病(産前産後帯下等所謂、血の道から来る婦人特有の病)は、
この中に入っていない。
清邪は上に居り、濁邪は下に居る。大邪は表に中り、小邪は裏に中る。
清邪(腰より上に中る露・寒・風)は上に居り、濁邪(腰以下に中る風・寒・湿)は下に居る。
大邪(露・寒・湿・風は全て外より皮膚を侵すもの)は表に中り、小邪(諸の飲み物)は裏に中る。
穀タク(食+託-言)の邪口從り入る者は宿食也。
食物の邪が口から入った者は腹に溜まって宿食になる。
五邪人に中る各の法度有り、風は前に中り、寒は暮に中る。
以上の清邪、濁邪、大邪、小邪、食物の邪の五邪が人に中ると各々の規則があり、
風邪は午前に中り、寒は暮に中る。
濕は下を傷り、霧は上を傷ふ。風は脉を令て浮ならしめ、寒は脉をしめ急ならしめ、霧は皮ソウ(月+奏)を傷め、
湿気は重いから下を傷り、霧は軽いから上を傷り、風が表に中れば陽気がこれにおもむいて留まるから脈を浮にさせ、
寒脈に中れば脈縮にさせ、霧(侵す所深い)は皮膚のキメを傷り、
濕は關節に流る、食は脾胃を傷り、極寒經を傷い、極熱絡を傷つく。
湿(その気弱で質重い。重いものはよく入る)は関節に流れ、食(食物)は脾臓と胃を傷め、極寒は経脈を傷め、
猛烈な暑さは絡脈を傷める。
(14)問ふて曰く、病に急に當に裏を救ひ表を救ふ者有りとは何の謂ぞ也。
お伺いします、病に、当然直ぐに裏を救い直ぐに表を救う事が有るというのはどういうことですか。
師の曰く、病を醫之を下し続いて下利を得消穀止ま不、身體疼痛する者は急に當に裏を救ふ。
師匠が言う、病人を医者が下した為に下痢が始まり、その下痢の量も回数も多く出て止まらず、
体が痛み始めた者は急いで裏の病を救い、
後身體疼痛すれども清便自から調ふ者は急に當に表を救ふ也。
その後に、身体の痛みは解れないが、少しずつでも下痢の回数が減り、量も少なくなってきた者は、
急いで表の病を救ってやるということである。
(15)夫れ痼疾を病み加ふるに卒病を以てするは當に先ず其の卒病を治し後乃ち其の痼疾を治すべき也。
以前から持っている病に新たな病が加わったら、当然先ずその急性病を治して後に持病を治してやりなさい。
(16)師の曰く、五臓の病各の得る者有るは愈ゆ。
師匠が言う、肝心脾肺腎の各五臓の病にそれぞれ陽病は陰を好み、熱病は寒を好むという様に
ふさわしいものを得る者は治るのである。
五臓の病に各の悪む所有り、各の其の喜ば不る所の者に随ひて病を爲す。
その反対に五臓の病にはそれぞれ嫌うものが有り、五臓に害を及ぼす寒熱燥湿風を嫌うが、
五臓がそれに従ってしまい病が起きてしまう。
病む者素食するに應ぜ不して反って暴に之を思へば必ず熱を發する也。
普段食事を欲しがらない者が、急に物を食べたいと思うのは胃熱が出てきたからである。
そういう者は必ず発熱するのである。
(17)夫れ諸病藏に在り之を攻めんと欲すれば當に其の得る所に随ひて之を攻むべし。
諸々の病が臓にある者を薬で取り除いて治そうと思えば、
当然その病がどうして起こったのかを考え、表れている証に従ってこれを治療すべきである。
渇する者に猪苓湯を與ふるが如くす。餘は皆此に倣え。
例えば、咽喉が渇く者には猪苓湯を与える、という様なものである。
他の諸君も皆この調子でゆけ。
《臓腑經絡先後病脉證・第一》
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